約一ヶ月ぶりのいわきへの帰宅。我が家は、東北の地にあり、標高500mの山上にあるので、里よりずっと早い紅葉の進み具合である。一年ぶりの秋は、しばし忘れていた見事な風景だった。
多くの人が、紅葉は何日も続くものだと思っているだろうが、じつは、その地の本当の紅葉は、そこに住む者にしか味わえないものであり、燃える様な見事な一瞬というのは、わずかただ一日の出来事なのだ。
残念ながらもうその時は過ぎていたが、それでも、相変わらずの感動的な秋がそこにあった。特に、敷地内とその周辺はほとんどが落葉樹なので、それぞれの木の葉が、その持てる色を競うように紅く燃えている。この地の自然の大きさに改めて感動する。何とも贅沢な風景の独り占めである。
震災後、自宅には、特別な一度を除いて子どもらは一切帰っていない。未だに放射線量が高く、若い者たちが来るべき所ではなくなっているからだ。
この二年半の20数回に渡る帰宅の度に、この地の変化を肌で感じて来た。その都度いろいろな思いが現れては消え、消えては現れた。そのお陰で、きっと、他の被災者同様、今に至それなりの気持ちの整理も出来て来た。
しかし、ここで生まれ育った子どもらは、そうした気持ちの整理が出来ないままに今に至っている。どの被災地の親も、きっと私と同じように、子どもに対する申し訳なさを感じ、哀しさを感じていることだろう。
この変わらない懐かしい風景を目の前にして、思わずカメラを持って庭に飛び出した。この自然を改めて自分の感性の中に刻みたいと思い、ここに来れない子どもらにも、この感動を見せてやろうと思ったからだ。
きっと、自然の中で生活をする多くの人がそうだと思うが、30年間という長期に渡る暮らしとなれば、どの季節に、どの場所のどの位置に、角度に、自分の最も見たい風景があるかがはっきりと身体に刻み込まれている。
大好きな池に浮かぶ落ち葉を撮ろうと所定の位置に向かった。と、私の気配に驚いた鴨たちが一斉に飛び立った。いつもは、大抵つがいの二羽だけだが、この日はまったく違っていた。空に飛んだ姿を瞬時に数えるのだから、そう正確な数字ではないが、すくなくとも20数羽も居る。水面から大きな羽音を立てて一斉にバタバタと飛び立った。
「うわっ、すごい!」と驚いたと同時に、これはいつものことだが、自然の中に棲まうこうした動物たちの姿に出くわすと、瞬時に、「あっ、邪魔してごめん!」「すぐに居なくなるから戻って来て!」と思う。それは、彼らこそがこの大自然の主であって、自分はむしろ、その静かな生活を邪魔する闖入者であることをとっさに感じるからだ。
そして、直後に決まって、こんな動物たちの居る自然の中に住まわせてもらっている幸せを感じ、まるで宝物を発見したように嬉しくなってしまう。
震災後、私たちが生活の営みを停めてしまったこの地では、植物も動物も、すべての自然の中のいのちたちが、その営みをとどめる邪魔者が居ないことを知り、ものすごい速さで本来の自然に還ろうとしている。
放射能で汚染され住めなくなってしまった寂しさよりも、ここにはまだ、そんな罪を犯した私たち人間に代って、いのちを賭して元の自然の姿に還そうとしてくれている自然の大きな力が遺されていることを知って、嬉しく、そして心から有り難いことだと思えた瞬間であった。