2015年8月10日月曜日

いのちを大切に出来ない国に未来はない


 先日、神戸で、原発事故の記録映画「遺言」が上映された。この映画を全国で上映中の知人から依頼され、私が長く関るNPO「2050(ニセンゴジュウ)」も主催者の一団体となってこれを応援した。
 上映時間3時間45分。監督自らが「原発事故を体験する映画」と言った長編の記録映画である。フクシマの一被災者としては、忘れたい記憶を改めて追体験させられた重い内容の映画であった。
 舞台は、原発の放射能被害を最も強く受けたと言われる福島県の飯館村。この地で酪農を営む人たちを中心とする映画である。映画では、事故後彼らがいかに家を失い、家族を失い、友人、仕事、生活、人生のすべてを奪われたかが克明に描かれている。
 飯館村には大量の放射能が降り注いだ。酪農家たちはあらゆる面で窮地に追い込まれる。搾乳した牛乳を捨てる日々、やがて、その愛牛も自らの手で殺消処分を強制される。こうした状況に絶望して自ら命を断つ人が居た。
 その憤りと悔しさから一人の酪農家が言った言葉の意味は重い。「いのちを自由に出来る立場の人間が、いのちに責任を持つのは当たり前のことだ!」
 人の命は二の次三の次、「金だけ、今だけ、自分だけ」は、今の政治家を評する言葉だが、同時にこれは、経済、医療、教育、環境、食糧、その他どの分野に於いても共通する、今の日本の諸問題の元凶である。
 この「いのちを大切に出来ない日本人とこの国」のあり方が、原発事故ほどあらわになったものはない。この映画に記録されているのはそのほんの一部である。
 今の今でも、この国では原発難民を十万人も抱え、海に汚染水を垂れ流し続け、放射線管理区域と同等の汚染地帯に数十万の子ども、若者、母親らを平然と住まわせ、汚染された食物を復興のアラワレとして半ば強制的に食べさせ、多くの国民のいのちを危険にさらし続けている。
 にもかかわらず、事故の当事者は元より、政治家も経済人も、国民自らも、原発事故はもう終わったかのように知らぬ振りを決め込み、相変わらずの無関心、自己の利益と立場の保全に狂奔している。「いのちを大切に出来ない国」に、国民の幸福も未来もあるはずが無い。改めてそう感じさせてくれる映画であった。宙八