2013年4月11日木曜日

「放射能を喰って生きるからいい!」

 月一度の割合でいわきの自宅に帰宅しているが、毎回、帰宅の度に異なった複雑な思いを体験する。

 震災以前から限界集落と言われていたこの地区は、震災後、いよいよ崩壊の危機に直面している。10件ほどあった世帯数は、今や4世帯が残っているだけ。その人たちの中にもすでに移住を考えている人も居る。来る度に出来るだけ一人でも多くの人に会って帰りたいと思うが、なかなかそう出来ないことも多い。

 昨日、家の整理で出たものを庭で燃やしていると、煙を見たとなりの隣人が心配して顔を出してくれた。留守がちなこちらの状況を知っていて見に来てくれたのだ。有り難いことである。

 彼は、独り身で暮らしていて間もなく80歳になる。彼との会話に限らず、村人との会話はいつもワンパターンだ。互いの近況をしばし話すと、次には被曝や原発の状況が心配な話、やがて村人に関する情報交換。そして、元気でまた会おうねと言う別れの言葉で終わる。そんな具合である。彼とも久しぶり、立ち話だったが束の間の貴重な会話であった。

 この村でもようやく除染が始まったが、世間で言われるような期待感はほとんどの人が持っていない。山奥で、家の周囲を多少除染しても、すぐにまた戻ることを知っているからである。忙しい田舎暮らしでなかなか出来なかった周辺の掃除が、これで少しはきれいになるから有り難い、くらいが正直な本音である。そのために一軒あたり数百万にもなる除染費用をかける無駄使いをジレンマを持って一番感じている人たちでもある。

 自給している彼に、野菜の数値は測っているんですか?と聴くと、結構測っているらしい。「除染も俺はいいと言ったんだけど、全部やることがきまりだからってやることになったんだよ」「俺は、放射能を喰って生きるからいいと言ったんだけど!」と苦笑する。そんな言葉が理解できるのは、被爆地に生きる者だけだろう。

 「人生で最も大切なのは思い出である」という話を聴いたことがある。たしかにそんな気がする。長年住み慣れた家を離れる離れないは、個々それぞれが様々な事情を抱えて決断することだ。年配者の多くが被災地に残る決断をする事実は、被災してみれば容易に理解できることだ。しかし、そんな人たちでさえ、自分の子どもや孫が被爆地に居ていいと思う人はほとんど居ない。

 「放射能を喰って生きるから・・・」と哀しい笑いを投げかけた80歳の彼に遺された過去の時間は、未来の時間よりもはるかに長い。放射能がどんなに危険であるかは分かっていても、今こうして、思い出の場に居続けることが、今を生きるための唯一の元気のモトだからだ。被災地で生き続けることを覚悟した者だけが知る言葉にならないメッセージを聴いた。

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