昨日、京都で庭師をやっていると人と出会い、いろいろ話をした。日頃感じている日本の美的感覚について共感するところがあり、とても楽しい時間だった。
彼によると、京都の庭師は、他の地域の庭師の使ういわゆる剪定鋏は一切使わないのだそうだ。京都にただ一軒しかない庭師のために鋏を作る専門店があって、そこで作られた鋏だけを使うのだと言う。
「なんだそのこだわりは!」と思ったが、その理由を聴いてなるほどと思った。その鋏は、すき鋏と言って、葉や枝をすくための鋏であり、切るために使う剪定鋏とは、その用途も目的も根本的に違うのだと言う。
なるほど、すくと言う発想には、庭師の思い通りに草木を切る剪定とは違い、草や木本来の姿をそのままに残すと言うまったく異なる発想がある。それは、現代にありがちな見て見ての発想ではなく、むしろ、見えないものを見させ、感じさせるために少しだけそっと手を入れる、と言った日本人特有の繊細な美的感性がある。すき鋏はそのためのもの。素晴らしい庭師の美へのこだわりである。
かつて、自分で家を造りたいと考えいろいろな建築の本を漁ったことがあった。その時、最も興味を持ったのは、いわゆる数寄屋造りの代表建築である茶室に表された様々な日本の美についてであった。その美しさにも、造園に通じる表現があちこちに見られた。
例えば、茶室のにじり口。なぜあんな小さな入り口を造るのだろうと思ったが、じつは、あの狭い入り口を通るためには、当然、身体をすぼめ頭を下げて入らなければならない。入り口をくぐり抜け、身体を伸ばしたその瞬間に感じる身体と心の開放感にこそ、にじり口の目的があると知って驚いた。
さらに、そのにじり口の正面には床の間があって、そこには、主人のこだわりの書や絵や生け花が置かれている。それらに描かれた世界が、にじり口を通り抜けた瞬間に心に飛び込んで来る。それが、身体の広がりと相まって、一瞬にして客人を非日常の世界へと誘う。そんな仕組みがあるのだと知った。
庭師の彼が言う。「京都を本当に楽しもうと思ったら、京都の職人の世界を覗くことですよ。」「京都の職人の感性と技術が失われたら日本の文化おしまいですから」とは、必ずしも庭師である彼の手前味噌ではない。まさに、彼が言う通り、見えない世界を楽しむことにこそ日本文化の美の本質があり、日本人の感性がある。それが、世界の人々が認めるワビサビの文化でもある。それが失われたら、間違いなく日本には、本来の文化がなくなってしまう。
海外からの最も多くの観光客が訪れると言われる京都。この京都の文化には、そうした日本人の美的感性がびっしりと詰まっている。京都とはそんな場所だ。そして、この京都の文化のそこここに見られるものこそ、日本人が忘れつつある見えないものへ気配り、心配りの「おもてなし」の心なのだ。
今こそ日本は、日本人にとって本当に大切なものは何か?に気付かなければならない。一時の豊かさである経済やモノを手にすることばかりに狂奔する日本人が、その裏側で失いつつある大切な豊かさ、その勿体なさを改めて知った一日でもあった。
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