2014年4月5日土曜日

相撲にみる日本人の命の原点


 京都に住んでいるお陰で、被災者はいろいろな催し物に招待して貰える。先日は大相撲京都場所を見せてもらった。昔一度見たことはあったが、何十年ぶりかに見る生の相撲であった。
 相撲がなぜ国技なのか?その理由を知りたいと思って見たが、なるほどこれが国技の理由かと自分なりに解釈して大いに楽しめた。
 相撲はかつて神事だったそうだ。なるほど、行事の衣装や横綱のしめ縄も、神社のそれと同じとするなら、横綱は、俗界を超えて神界に入った人間だという解釈もあり得る。勝手な自分の解釈だが、これはすごいことだと思った。
 土俵入りに弓取り式、四股(シコ)を踏むことのどれもが、その場の邪気払いだそうな。三役そろい踏みに見る関取の立ち方も、正面に向い東西逆三角形の対を成す。なぜ南北ではなく東西なのか等々。相撲を神事と思って見ると、じつに興味深いことが一杯あった。
 気がつくと、狭い椅子に座って朝の8時過から午後3時までぶっ通しで7時間も見てしまった。これが意外に疲れてなく、むしろ、見る前よりも体も気も元気になって随分癒された気分になっていたのには驚いた。
 相撲は、プロレスやボクシングと同じ格闘技と見られがちだが、見た印象からすると、そうしたものとはまったく似て非なるものである。
 人は興奮すると「頭に血が上る」と言うが、その言葉通りに格闘技は見てるだけで頭に血が昇ってカッカする。そんな興奮が良くて見るものだとも思うが、相撲の場合は、そんな興奮具合とはまったく違う。
 いい取り組みになればたしかにワーっと湧いたりもするが、それが、まったく違う楽しみ方なのだ。言うなら、勝敗はどっちが勝っても負けてもいい、それがいい取り組みでさえあれば、勝ち負けにこだわらずに誰もが喜ぶ。どっちの相撲取りをも賞賛する。そんな楽しみ方だ。
 相撲の基本は、四股(シコ)踏みにあるようだ。稽古の際、出番を待つ間相撲取りは、ひたすら四股を踏みながら待つ。いい相撲取りほどじつに見事な、見ていて惚れ惚れする四股を踏む。
 なぜ、四股がそんなに大事なのかと考えたが、自分でその真似をしてみて分かった。四股とは、じつに足腰が大地にしっかりと落ち着く運動なのだ。踏めば踏むほど体全体のバランスが取れてどっしりと安定する。なるほど、相撲では、そのためにやるのかとの勝手な解釈である。
 と同時に、相撲がなぜ国技かの理由もそれなりに分かった気がした。この大地にしっかりと気を下げ、体全体をどっしりと安定させる。これが相撲にとっては何よりも大事な基本なのだろう。いや、じつは、この四股にこそ相撲の真髄がある。これも自分の勝手な解釈である。
 今、日本人の気は、随分と上ずってるなと感じる。言うなら、興奮させる神経ばかりが過剰に働いていて、気持ちも体もまるで地に足がついてない命になってしまっているように思えるのだ。
 それはきっと今の日本人が、知識や情報を得ることばかりに夢中になって、都会の喧噪やモノへの執着、ストレス一杯の人間関係の中で、絶えず神経が高ぶっていて興奮状態にあるからなのだろう。
 相撲が国技である理由は、型の中にそのすべてが現れていると見た。日本人の食の原点である米俵に囲まれた円の中で、塩の気をたっぷりと含んだ土俵は、まさに地球の大地そのものである。その大地の気を存分に浴び乍ら、裸の体と体とがぶつかり合い互いにその力を高め合う。日本人の命の原点が乱舞する様を神前に捧げる儀式。相撲とは、そんなマツリゴトなのかも知れないと思った。
 残念なことに、今、横綱は3人とも外国人だ。なぜ、日本人からなかなか横綱が出ないのか?これは、あらゆる分野にも言えることだが、今の日本人の心身の脆弱さが、国技の上にも見事に現れているようにも思えた
 誰もが待ちわびている日本人の横綱。果たしていつかは実現するのだろうか?取り戻したい日本人の命の原点を相撲に見た。相撲はまさに日本人の国技そのものであった。

0 件のコメント: