2013年9月8日日曜日

オリンピックで隠されて行く危機の事実

 2020年、東京で再びオリンピックが開催されることが決まった。

 阿部首相は、国際オリンピック委員会の総会で、原発の汚染水漏れを危惧する海外に対して「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は、原発港湾内の300メートル範囲内で完全にブロックされている」「健康問題については、今も、現在も、将来もまったく問題ない」と発言した。

 この発言を聞き、1億2千万の命を預かる一国の首相が、どうしてこんな嘘、でたらめな発言を、世界に向けて平然と言えるのだろうか?こういう人物を首相にしている日本国民とは、一体どういう民族なのかと改めて不思議に思った。

 崩壊した原発から、毎日300トン以上もの汚染水が海に垂れ流しになっていると公表されたが、こんなことは、震災直後から多くの人が分かっていた。その事実を隠しきれなくなって東電が、ようやく、止むなく発表したことである。

 先日、津波で流された宮城県の漁船が、2年半ぶりに福井県沖の日本海で回収されたと新聞にあった。日本の周囲を流れる海流が、船を、ハワイ、尖閣諸島、日本海へと数千キロ漂流をさせたことを海上保安本部が確認している。海流は世界中を自在に流れる。汚染水が、原発から300mの範囲に完全にブロックされているなどと言うたわけた嘘を一体誰が信じるだろう?

 原発による内部被曝の大半は食べ物による。チェルノブイリでは多くの人が牛乳によって被曝をしたと言われるが、日本では、間違いなく、汚染され続ける魚を食べることで膨大な人たちが今後、内部被曝をして行くことだろう。

 専門家によると、汚染水は今後6年間で完全に日本列島を覆い、日本の海産物は全滅するだろうと言う。アメリカ、オーストラリア、中国、韓国のアジア諸国がこの問題を心配し、日本に抗議をし始めたのは当たり前のことである。

 その海外の杞憂によって、オリンピックが日本に招致されないことを祈っていた。お祭り騒ぎでいよいよ原発の危機が目隠しされてしまうからである。しかし、札束攻勢の外交が功を奏して、その心配がとうとう現実のものになってしまった。

 27年経った今でも、内部被曝によって新たな被爆者が次々と出て来るチェルノブイリの原発事故。世界有数の魚食民族である日本人が、将来にわたってまったく健康を害しないなどと、一体、誰が保証できるのだろうか?

 収束どころか未だにその解決の糸口さえつかめていないフクシマを抱える日本が、この危機的状況に眼を閉じ、耳を塞いで、国を挙げてオリンピックというお祭りに血道を上げて行くことになった。そのおめでたい裏側には、間違いなく、経済効果という豊かさの妄想、そのお化けがまたぞろ見え隠れする。

 「表大なれば裏また大」この危機の本質に目覚め生まれ変わるために、さらなる危機的状況を必要とする日本人。被災者の多くは、この国とこの国民の底なしの無自覚さには、もう心底くたびれきっている。


 

 

 

 


2013年7月5日金曜日

見晴らしのきく場所から遠くを見て生き抜け!

 いわきに居た頃(もうそう書かなければならなくなった)、限界集落と言われる地区の中とは別に、近隣に長年付き合った友人たちが10人ほど居た。私にとってはかけがえのないコミ二ティだった。その友人達とも原発事故の被災でバラバラになってしまった。

 その中の一人で、いち早く移住を決め、長年手塩にかけたこだわりの家を売り払うことを決断した友人が、「これからは、見晴らしのいい場所に住まなきゃね!」と言っていた言葉が頭に残っている。

 いわきのわが家も彼の家も、素晴らしい自然の中にあったが、たしかに、そう開けている環境ではなかった。それだけに、もし今後、終の住処を選ぶことがあったとしたら「見晴らしのいい所がいいなあ」とそれ以来ずっと思っている。

 都会の暮らしは、人や文化を楽しむためにはたしかに良いが、反面、日々の暮らしの煩雑さや情報の多さには少々辟易する。特に、被災者として見ざるを得ない原発情報や政治や経済の動向。世の中の波の数々。時には発信。どれもが、今という時代に生きて行くためには欠かせないことだが、二年もこんな波に翻弄されていると、そろそろこの揺れから逃げたくなっても来る。このままでは、寿命が縮む危機感さえ感じる。

 人生も60歳を過ぎれば、世の中や人生の何たるかが見渡せるようになる。少々のことには動ぜず、無用なことはさらりと流す術も身につけて来る。体力の減少やモノ忘れのリスクも、ある意味では便利なことでさえある。若い時には無かった遠くを見る目は、年配者ならではの特権でもある。

 老子の言葉に、「広大な宇宙から見れば、人間世界の出来事はすべてがアブクのようなものだ!」がある。あまりにも大きすぎる視点は世間では通用しないが、今の時代のように、あまりにもミクロな問題に翻弄され続けると、誰もが疲れ、時には命取りにもなってしまい兼ねない。

 厳しいグローバル時代を生き抜くためには、少しでも見晴らしのいい場所を確保し、遠くを見て生きて行くことは大事なことだ。淘汰されるかどうかもすべてが自己責任、自分の判断力次第の時代になる。津波で生き延びることが出来た「てんでんこ」の教えを、ここでも私たちは忘れてはならない。

2013年6月8日土曜日

サバイバルの知恵?

 原発事故が起こるまでは、福島の山奥で30年、植物、動物、光や空気や水など、自然の営みを日々の糧として生きていた。勿論、機会があれば新聞も雑誌も読んだが、それは、生活の中でのほんの息抜き程度のものであった。

 しかし、原発で被災したことがきっかけで都会で暮らすようになり、社会の状況を日々、新聞やテレビ、雑誌等で頻繁に知るようになった。

 お陰で、政治や経済、その他諸々のことが分かり、ようやく人並みになったとも感じるが、改めて、世の中の情報の多さ、その煩雑さに驚く。知って面白いことも沢山あるが、それによって頭が振り回され、身体の穏やかさがどこかに行ってしまったようにも思う。

 世の中に嬉しいことが多ければ、これほど疲れる事も無いと思うのだが、何しろ激しく、辛く、情けないことが多い。

 モノを持たない、捨てる、離れる「断捨離」が注目される昨今だが、モノの手放し同様に、情報の手放しもまた、この時代を穏やかに生きるためには、大切なサバイバルの知恵の一つかも知れない。

2013年4月18日木曜日

迷妄、呪縛を解き放とう

 懲りもせず、またぞろ始まってしまったモノやお金を追いかける世の中を見ていると、日本人は、一体いつになったらこの迷妄、呪縛から解き放たれる日が来るのだろうか?と考えてしまう。

 震災後、来日したダライラマが、日本人に向けて言った言葉を思い出す。
なぜ人々の欲望が止まらないか?それは幸福感を絶えず外部の刺激に求めているからです。 しかし、本来「空(くう)」であるモノの世界に永遠の満足感はありません。今こそ、日本人は次の段階へ、心の平和という本当の幸福の世界へと向かうべき時です。」

 すべてのモノは移り、変わりゆく。どんなに好きなモノでもいつかは壊れ、目の前から姿を消す。愛する人も、大切な家族も、友人も知人も、誰よりも愛おしいこの自分自身でさえ、いつかはこの世を去る。

 日本人は元来、このモノの本質であるところの「無情」を最も良く知り、心の豊かさの世界、「侘び寂び(ワビ、サビ)」の文化を創り上げた。そのモノのアワレの本質を何よりも愛し、慈しんで来た民族だった。相手に心からの敬意を払う日本人の挨拶は、頭を下げ、腰を曲げ、相手の視線から自己(我)を消すという究極の礼儀作法でもある。

 そんな日本人が、目に見えるモノにしか幸福感を感じなくなってしまったのは、なんとも哀しいことである。寂しいことである。生きる為に必要な基本的なモノやお金があったなら、もうそれ以上のものは不要なはずである。

 にもかかわらず、もっともっとと「外なる幸福感」を限りなく追いかける病気「もっともっと症候群」が、現代の日本人とこの国の迷妄や呪縛の元凶である。<幸福感は心で感じるもの>この当たり前のことを思い出し、一人一人がそれを生活の中でどう実践するかが、今の私たちには求められている。

 



2013年4月11日木曜日

「放射能を喰って生きるからいい!」

 月一度の割合でいわきの自宅に帰宅しているが、毎回、帰宅の度に異なった複雑な思いを体験する。

 震災以前から限界集落と言われていたこの地区は、震災後、いよいよ崩壊の危機に直面している。10件ほどあった世帯数は、今や4世帯が残っているだけ。その人たちの中にもすでに移住を考えている人も居る。来る度に出来るだけ一人でも多くの人に会って帰りたいと思うが、なかなかそう出来ないことも多い。

 昨日、家の整理で出たものを庭で燃やしていると、煙を見たとなりの隣人が心配して顔を出してくれた。留守がちなこちらの状況を知っていて見に来てくれたのだ。有り難いことである。

 彼は、独り身で暮らしていて間もなく80歳になる。彼との会話に限らず、村人との会話はいつもワンパターンだ。互いの近況をしばし話すと、次には被曝や原発の状況が心配な話、やがて村人に関する情報交換。そして、元気でまた会おうねと言う別れの言葉で終わる。そんな具合である。彼とも久しぶり、立ち話だったが束の間の貴重な会話であった。

 この村でもようやく除染が始まったが、世間で言われるような期待感はほとんどの人が持っていない。山奥で、家の周囲を多少除染しても、すぐにまた戻ることを知っているからである。忙しい田舎暮らしでなかなか出来なかった周辺の掃除が、これで少しはきれいになるから有り難い、くらいが正直な本音である。そのために一軒あたり数百万にもなる除染費用をかける無駄使いをジレンマを持って一番感じている人たちでもある。

 自給している彼に、野菜の数値は測っているんですか?と聴くと、結構測っているらしい。「除染も俺はいいと言ったんだけど、全部やることがきまりだからってやることになったんだよ」「俺は、放射能を喰って生きるからいいと言ったんだけど!」と苦笑する。そんな言葉が理解できるのは、被爆地に生きる者だけだろう。

 「人生で最も大切なのは思い出である」という話を聴いたことがある。たしかにそんな気がする。長年住み慣れた家を離れる離れないは、個々それぞれが様々な事情を抱えて決断することだ。年配者の多くが被災地に残る決断をする事実は、被災してみれば容易に理解できることだ。しかし、そんな人たちでさえ、自分の子どもや孫が被爆地に居ていいと思う人はほとんど居ない。

 「放射能を喰って生きるから・・・」と哀しい笑いを投げかけた80歳の彼に遺された過去の時間は、未来の時間よりもはるかに長い。放射能がどんなに危険であるかは分かっていても、今こうして、思い出の場に居続けることが、今を生きるための唯一の元気のモトだからだ。被災地で生き続けることを覚悟した者だけが知る言葉にならないメッセージを聴いた。

2013年2月8日金曜日

「豊かさと人間退化のチキンレース」


  中国13億5千万人、アメリカ3億1千万人の人口比率から言うと、わずか1億2千万人、世界第三位の経済大国日本は、紛れも無く世界第一の豊かな国である。

 にもかかわらず、26カ国中24位の幸福度であったと言う事実と重ね合わせると、世界一豊かな国日本が、同時に、世界一不幸な国であったことが分かる。これは、明らかに、経済やモノの豊かさが、国民の幸福度とはまったく関係のないものであることを証明している。

 世界未曾有の災害に見舞われ、未だに出口の見えない原発事故を抱えながら、国民の多くは凝りもせず、更なる経済の豊かさを追いかけている。モノの豊かさが、必ずしも人生の幸福を約束するマジックでないことを、もうとっくに知りながら・・・にである。

 モノゴトには表裏がある。極まれば転じ、表大なれば裏もまた大となる。美食、飽食は現代病を激増させる。新幹線は、旅の途中の楽しさを奪った。エスカレーターは足の機能を弱らせ、フィットネスクラブに貢献した。車のナビゲーターは、ドライバーの土地勘をことごとく失わせ、サプリメントは、人々から味覚と料理の楽しさを奪った。

 こうしたモノに依存した人間の生物的退化現象は、身体ばかりでなく、ココロの豊かさをも喪失させる。過剰な便利さは、幸福を感じられない人間を生み出すのだ。我々日本人は、この行き過ぎた豊かさと人間退化の不毛なチキンレースを、この先もまだまだ続けるつもりなのだろうか?(宙八)





2013年1月3日木曜日

「いのちの感性」を取り戻す年にしよう!

 新しい年は、人のこころをリセットさせる。こころには時間の制約も空間の制約もない。その気になれば瞬時に転換できるのがこころと言うものだ。そんな便利なこころを持ちながら、人は驚くほど変わらないこころをもまた持っている。

 昨年の暮れには、「アラブの春」ならぬ「日本の春」が来るかも知れないと期待もしたが、多くの国民は再び、経済や便利さという妄想を追いかける道を選んでしまった。更なる悲劇が起こらんことをこころから願うばかりだ。

 しかし、そうした過剰な豊かさや便利さは、人間の感性を間違いなく貧しくさせる。車は人の足を萎えさせ、高速列車は、旅の途中の楽しさを奪った。携帯電話は、人の触れ合いの嬉しさを減少させ、ナビゲーターは、方向を見定める感性を鈍くさせた。自然との触れあいを求める人々が増え、健康法やランニングブームが社会現象なのは、現代人のそうしたいのちの危機の現れだ。

 本来、物質的な豊かさとは、人間がより幸福に生きるための目的だったはず。しかし、それを求めれば求めるほど身体とこころは貧しくなってしまった。そんな答えは知ったはずなのに、再び我々は同じ道を歩もうとしている。お金やモノが人生の目的になったところに日本人の最大のジレンマと悲劇がある。「知足(足るを知る)」は、過剰な欲望を戒める素晴らしい言葉だが、我々は、すっかりそんな生き方を忘れてしまった。

 こうしたタガの外れた欲望は、食の世界に於いてはさらに明白だ。外食や総菜もの、ファーストフードやコンビニ食が当たり前の食事となった。買っては捨て買っては捨てている美食、飽食が食事になった。それでも足りずに機能性食品、サプリメント、栄養剤を買いにドラッグストアに駆け込む。一億二千万総人口が「栄養不足心配症候群(シンドローム)」にかかっている。

 しかし、人の身体は、過剰な栄養分を摂り込めば摂り込むほど、健康を維持するための機能が衰える。栄養剤は、飲むほどに自力で栄養を造り出す力が衰え、免疫力、治癒力の元となる腸内細菌(バクテリア)を減少させ、いよいよ食物から栄養を取込むことの出来ない身体を造ってしまう。

 病人が増え、栄養失調の患者が激増している事実が、現代人の食べ方の過ちを裏付ける。日本人の心身は完全に本来の感性と力を失ってしまった。満足しないいのちは「もっともっと」を追いかける。

 食をつつしみ、簡素な生活に美と豊かさを感じ、自然と触れ合うことに喜びを感じていた日本人の感性をもう一度取り戻すこと。そんな身体性の回復なくして、日本の再生も発展も絵に描いた餅となる。今年こそは一人一人の国民がそれを実行することを心から祈りたい。

 今日もまた、テレビの株式市場が、人生の豊かさだといわんばかりに株の数値の上がり下がりを報じている。いつの日か、国民の総幸福度(BNH)がテレビで流される日が来ることを願うばかりである。宙八