2014年3月25日火曜日

自然ないのちは枯れて終わる

 自然食の店で買ったりんごが一袋。気付かない内に二ヶ月間ほど冷蔵庫の奥に眠っていた。もう腐ってダメかなと思い袋を開けてみたがどうやら大丈夫そう。

 おそるおそる皮をむいて一個食べてみたが、堅さも味も新鮮そのものでまったく問題ない。どころか、青臭さが抜けてじつに甘くて旨かった。この大丈夫さには正直、改めて驚いた。

 野菜でも果物でも、時間が経てば腐って終わるのが普通だと考える。特にこの頃の野菜や果物は、普通栽培のものであれば特に、大量の農薬が散布され化学肥料によって育てられているので、まず間違いなく腐って果てる。

 たとえ、今注目の有機野菜であっても、牛糞や鶏糞、豚尿などを過剰に入れたものは腐り易い。料理をすると、煮えるに従って肥料の嫌な臭いがプンと鼻をつくことさえある。
 
 かつて、タマネギ農家の友人が、化学肥料も有機の肥料も使わない自然農法で栽培されたタマネギは目にしみないと言っていたことを思い出す。彼は、いろいろな栽培法をやっていたので、狭い車でタマネギを運ぶ際にその違いが分かったのだと言う。常識外れの事実にえらく共感をしたものであった。

 これには思い当たる節があった。いわきの我が家でも、かつては、肥料もやらず耕しもせずのほったらかし栽培でやっていたが、この自然に近い栽培で育った野菜は、どれもがじつにさりげない味で、不思議なほど大根臭さや人参臭さと言ったアクがなかった。そして、大根でもカボチャでも、長期間保存が出来て、最後は決まって腐らずに枯れた。野草の最後と同じである。

 腐る野菜や果物は、食べることが出来なくなるが、枯れる野菜や果物は、どんなに時間が経っても枯れているので食べることが出来る。乾燥野菜になってもまだ食べられるのだ。それが本来の野菜や果物の姿でもある。

 これは人間の体についても言えることだ。これだけ大量に日々化学物質や不自然な食べ物を体内にとり込んでいては、腐って当たり前の身体である。死んだ後の噂などどうでもいいが、「腐って死んだ!」ではあまりにも情けない。せめて「枯れるように死んだ!」と言われる命でいたいものである。

2014年3月20日木曜日

原発関連講演会のお知らせ


宙八おすすめの<講演会のお知らせ>

—福島第一原発立地地域元町長が語るー
「原発事故から見えたもの」

 井戸川さんは、県外避難を決断した勇気ある町長として世間の注目を集めた時の人でした。そんな町長であったがために、町民、東電、政府の間に立って、想像を絶する体験をされました。
 今回の講演では、どうすればこれ以上被爆者を出さずに済むか?事故をどう収束させるべきか?この惨劇を二度と引き起こさないためには何が必要か?今、私たちに出来ること、等々、井戸川さんならではの原発事故の体験と意見をじっくりと伺いたいと思います。

<講師プロフィール>
井戸川克隆(いどがわ かつたか)
1946年福島県に生まれる。福島県立小高工業高等学校・機械科卒
1978年株式会社丸井設立代表取締役就任・2005年退社
2005年~2013年福島県双葉町長を務める。福島原発の重大事故を受け、福島県の首長の中でただ一人町民の県外避難を実現させた。201210月と20135月にはジュネーブの国連人権理事会総会に赴き、原発事故後の福島の窮状を訴えた。多くの県民が汚染地帯で留め置かれたまま被曝し続けている現状を憂い「被曝を止めるために一身を捧げる」とし、全国各地を周り講演等で訴え続けている。

2014年3月22日(土) 13時半~15時半
講師: 井戸川克隆氏(元福島県双葉町町長)
場所: 港区エコプラザ 3階会議室A

   (東京都港区浜松町1-13-1 浜松町駅から徒歩4分)
参加費: 会員500円 非会員1000円(学生500円)ご質問ご予約は「mail@npo2050.org」までお待ちしています。

2014年3月19日水曜日

危険な味覚の退化

こどもの頃。化学調味料は、頭を良くするものだと洗脳された。漬け物やトマトにまで、真っ白にかけて食べたものである。ラーメン屋に入るとどうしてラーメンはこんな旨い味が出るのか?カウンターの中を覗いて、それが、サジ山盛りの化学調味料によるものであると分かり、家の食卓でも真似ていたものである。

この頃の外食では、漬け物や野菜、果物の味が極端に悪くなっていることに気付かされる。当たり前の自然な味を持った漬け物に出会うことがほとんどない。一口食べただけで、明らかに薬物処理されたものであることに気付く。とても飲み込める代物ではないのだ。

サラダの野菜や果物もまったくいただけない。勿論、外食でオーガニックの野菜や果物などは期待すべくもないが、とにかくどちらもまずい。とても野菜とは言えない味気のない野菜だったり、果物なんかも、まるで違和感のある甘みで辟易する。しばしば、洗剤の味が口の中に広がりこれまた飲み込めたものではない。

梅干しに至っては、モノがモノだけに最悪である。まるで、塩味や酸味が敵でもあるかのように、おしなべて妙な甘い味がついている。焼酎漬けなどはまだいい方で、しばしば、食べて気持ちが悪くなる薬物で処理されている。そんな梅干しが、ホテルなどでも今や当たり前のものになってしまった。

現在の食品技術を持ってすれば、とにかく、ありとあらゆる食品の味つけが、薬物処理でコントロールできるそうだ。卵や魚の切り身、肉等もほぼ間違いなく旨味が味付けされていると言う。そんなニセモノを食べて旨いと思ってしまうのだから、売る側にとってはこれほど楽なことはない。

本来、味覚は、美味しさを知る感覚であると同時に、危険を察知する感覚でもある。それが、ほぼすべてと言っていいほど食品がこうした技術で処理されていて、いわば、味が偽装されているので、いつの間にか、もうそのニセモノの方が本来の味なのだと錯覚するまでになっている。じつに情けないことである。

今後、食のグローバル化はどんどん進む。これまで国内でそこそこに規制されていた食品もいよいよどれもがフリーになる。表示義務も、売る側の都合で勝手に無用の時代になって行く。いのちにとっては恐ろしく危険な時代に突入する。いや、すでにもうそうなってしまっていることに気付く必要がある。

現代のあらゆる病気の温床が、この食物の危険な処理、品質の劣化の上にある。この食の激動の時代を生き抜いて行く為には、本来の味をしっかりと嗅ぎ分けられる舌を持つ事がとても大切だ。不自然な食は、ますます自然の味の分からない舌をつくる。騙されない味覚を持つことがサバイバルの条件となる時代である。


2014年3月6日木曜日

有り難い鴨川

特別用のある日でない限り、出来る限り歩くことにしている。そんな事を気にする歳にもなって来た。その点、今住んでいる被災者住宅は、鴨川の近くにあって、散歩や運動をするにはもってこいの立地である。常日頃、とても有り難いと思っている。

鴨川は、京都の左京区を北から南へ流れている。歴史ある街の大事な自然公園である。名前の通り鴨が沢山生息している。それに、サギ、鵜、鯉、雀を始めたとした沢山の鳥たち。散歩をしながら、そうした鳥たちを眺めているとまったく飽きない。いつでも元気に餌を漁ったり、そこら中を飛び回っており、見ているだけでこちらも元気になる。

この川の素晴らしさはもう一点、河川敷が、とにかく良く手の入った市民の憩いの場になっていて、じつに多種多様な人々が、いろいろな使い方をしている。
幼稚園から大学まで、近くにある学校は、毎日のように、サークル活動や、体育会などでも使っている。

当然、この川べりでは、ランニングや散歩をする人たち、自転車で通る人たちなど、子どもから年寄りまでじつに大勢人たちが楽しんでいる。特に、シニア達は、朝のラジオ体操から始まって太極拳やヨガなども毎日のようにやっていてじつに賑やか、健康維持のための貢献度はかなり高い。

京都の街は、この鴨川の存在でとても自然豊かな街に見える。こんなに川が市民に見事に利用されている姿をこれまであまり見た事がなかった。歴史のなせる技でもあるだろう。それほど市民にとっては毎日の生活に欠かせない大事な場所であり、いつでも気軽に自然と触れられる憩いの場でもある。

この川べりには、ところどころに流れ着いた砂場や砂利があり、そこには、様々な野草たちも自生している。この3ヶ月ほどは、じつにうまそうなアブラナが一杯生えていて、当初はちょっと遠慮してみたが、あまり旨そうなので、先日ちょっと摘んで来て湯がいた後で油で炒め醤油をかけて食べてみた。

これが抜群の味だった。売っている野菜の比ではなく、紛れも無い無農薬、無化学肥料の大安心の自然野草である。川べりは車も通らないので排気ガスの心配もない。日々鳥たちの糞が一杯まかれていてそれこそ栄養満点の野菜である。

一度食べたら、その新鮮な味が忘れられず、このところ散歩に行く度にちょいとつまんで来ては炒めて食べている。そろそろ周りの葉が大きくなり過ぎて来たが、まだまだ芯の柔らかい部分は十分に旨い。アブラナが終わったら今度はどんな野草がここに生えるのだろうか?今から大いに楽しみである。私にとっては、栽培も無用、誰にも遠慮の要らない食べ放題の有り難い畑である。