2011年4月30日土曜日

わが愛する国の哀しい一面

 震災が起きてから50日が経った。この間、避難しながらずっと考え続けて来たことは、こうした緊急時に、私たちが優先して守るべきものは一体何か?と言うことだった。
 それは、言うまでもなく、子どものいのちであり、その子どもを抱えている母親たちであり、未来を託す若者たちのいのちである。
 生物は、動物であれ植物であれ、次のいのちのために自らのすべてを捧げる。それが、この地球上に40億年もの間、営々と豊かないのちが繁栄し続けて来た理由であり、生物がいのちを繋いで行くための鉄則である。このあり方を手離すことは、そのまま、そこでいのちが途絶えてしまうことを意味している。当然、人間が生きることの意味もまた、究極的には、この一点に絞られる。
 国民が安心して生きられる国とは、この生物の基本である守るべきいのちを、どんな場合でも何よりも優先して守ることの出来る社会の仕組みを持っていることだ。そして、そうした仕組みを支える人材をしっかりと育てている国のことである。私たちの日本は、果たしてそうした国であるのだろうか?
 津波ですべてを失い助けを求めていた人に、政府は速やかに手をさし述べることが出来ただろうか?たしかに多くの情報が途絶え、救助は困難を極めただろうが、避難所の中には、1週間も二週間も食べ物や水さえも届いていなかったところがあったと聞く。なぜそんなことがあったのだろう?途上国でさえ、緊急時には空から物資を投下しているのに。先進国日本では、そんなことさえも出来なかったと言うのだろうか?
 震災直後、アメリカを始めとして海外のいくつかの国が、子どもを非難させる援助を惜しまないと政府に申し出たが、日本政府は断ったという。現在でも、イタリアから、NGOを通して250人の子どもを避難先に引き受けたいと申し出ているが、政府から安全と言われ続けている市民からの申し出はほとんどないとも聞く。
 私たちが住むいわき市では、明らかに被曝の心配がある時期に、いち早く小学校、中学校の新学期の始まりを宣言してしまった。そして、昨日は、市長が、いわき市では学校給食に、いわきで採れた野菜を地産地消で使うと誇らしげに宣言したと耳にした。市内の農家には、放射性物質をかき混ぜることになるので、絶対に畑の土を耕しては行けないと言う通達している一方で、である。
 政府は、先日、危険地帯の避難、保障問題が全国に拡大するのを懸念してか、一年間浴びてもいいと言われている年間の被曝線量の国際基準の1ミリシーベルトを、なんと、20ミリシーベルトまで上げてしまった。一体誰が、何を根拠に?簡単に変更してしまったのか?子どもや若者に、これまでの20倍もの危険性を引き受けろと言うことだが、その結果の責任は誰が取ると言うのか?
 こんな言動や事実の数々を上げたらきりがない。この大惨事に、国の姿勢、政治家の言動から、日本の子どもや若者のいのちを守ろうと言う姿が一切見えて来ないのだ。それどころか、自分の立場や利益や考え、大儀も正義も、人としての心さえも捨てている情けない姿が見えるばかりである。
 未来のいのちを守ろうともしない政治家、企業、御用学者には、この惨事をどう解決するかの道筋を語る資格は一切ない。国を思い動かしている立場の人間などとは決して言って欲しくない。国民は、自分のいのちは自分で守るから、せめて、ウソやその場しのぎのいい訳だけはもう止めて欲しい。これ以上、日本の未来のいのちを危険な場所や状況に追い込まないで欲しいと心からそう願う。
 この二ヶ月あまり、自分の国の表と裏の姿を見続けて、残念ながら、我が愛する祖国日本は、まったくと言っていいほどこうした緊急時に対応できる国の体を成していなかったことを痛感させられた。いや、かってはきっと、どの国よりもそんな国や国民であったはずなのに、である。今は、自分がこの国の国民であり、責任ある大人の一人であることを情けなく、申し訳なく、そして哀しくさえもある。
 原発の事故の身体的影響は、ただちには起こらないだろう。しかし、甲状腺がんや奇形などの体内被曝から生じる遺伝子障害は、体外被曝に比べて何倍も危険なのだ。これらの悲劇は、チェルノブイリの報告にある通り、確実に、数年後から始まるに違いない。被害者の数は、想像をはるかに超えたものになると指摘する専門家も多い。
 もし、無事であったら何よりのことである。皆で笑顔で「良かったね!」と胸を張って言い合いたい。ただ、こと原発に関する限りは、まだまだ危険な事態が継続中である。今日も、今も、放射性ヨウ素やセシウムは、福島の崩壊した原発から日本の空へ、海に、放出、拡散をし続けている。水素爆発の可能性もまだまだ消えていない。子どもたちを守り、若者を守るためにも、日々の備えだけは忘れずに居たい。宙八
 

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