2013年12月27日金曜日

今、私たちに求められること

 「これから世界は国境のない一つの世界になって行く」という言葉は、もうずいぶん前からあらゆる分野で言われて来た。しかし、その方向に向かうだろうという予想は、あまり実感が伴わないものだった。

 しかし、そんなグローバル化(地球化)の波が、いよいよここ数年、日々実感を伴うものになって来た。多くの人々が海外に行く機会が増え、世界のニュースを頻繁に目にするようになった。インターネットの進歩は、我々の想像をはるかに超えて、いよいよ個人の壁、社会の壁、国の壁を壊し始めている。


 日本人であると言う心を忘れず、しかし「世界は一つであり、すべての地球人は家族の一員である」と言う心を成長させ、それを体現して生きて行く人間になるにはどうしたらいいのだろうか?と考える機会が多くなった。


 国民の代表と言われるリーダーが、このグローバル化の現実が見えず、卑小な己の感情や狭い愛国心で時代を逆行させる言動が目につく。しかし、そうした人間を代表に選んだのは他でもなく国民自身だ。彼を批判する前に、我々一人一人が自身のあり方をこそ反省しなければならない。

 「今、日本人に問われているのは、政治家であれ、経済人であれ、官僚であれ、とにかく他者への依存心を捨て、世界の民主化と地球化の潮流に沿って、どう自らの意思と言動とをはっきり確立して表現出来るようになるかだ!」と発言する有識者は多い。

 まさに、そうなのだろうと思う。困難な原発問題の解決も、はっきりしない日本の未来も、すべてが、国民の一人一人の決断と勇気にかかっている。

 しかし、日本の社会の仕組みを変えることは当然一人では出来ない。多くの国民の同意と行動が必要である。ましてや、あらゆる分野で文化も民族もまったく異なる人々が出会い、ぶつかり、交流し合い、やがて一つになって行くグローバル化の道のりは、想像以上に長い時間と努力を要することだろう。

 しかし、自分の心のあり方やライフスタイルを変えることは、今日からでも、今すぐからでも可能なことだ。「自分が変われば世界は変わる!」を偉人たちの専売特許にして置くのは勿体ない。

 グローバル化への参加は「井の中の蛙」である島国日本の国民には最も困難な課題である。しかし、だからこそ私たちの一人一人が「自立した人間として一人の地球人になる」ことに勇気を持って向き合って行かなければならない。

 

 


2013年12月22日日曜日

希望の食の実践教育

 九州の福岡県で玄米食を基本とした食育に熱心に取り組む保育園の様子がテレビで放映されていた。高齢の園長さんの子育てに対する食の重要性を語る姿勢と長年の素晴らしい食育活動に感銘した。

 毎日の給食のメニューは、オーガニック野菜を使ったほぼ完全な和食の伝統食。5歳の園児が自ら食べる米を洗って仕込みまでする。食前には全員で一口100回を噛む練習をしてから食事が始まる。おやつもお菓子ではなくおにぎり。

 秋には沢庵用に買った大根を一人一人が洗い、葉っぱを切らせ木の桶に入れる経験までさせる。餅つきや干し柿作りも単なるお遊びではなく立派な食の実践作業となっている。おざなりな教育が多い中で、子どもたちの仕付けにまでなっているところが素晴らしかった。

 ややもすると、単なる知識の投げ売りやファッションになりがちな食の教育や宣伝活動。戦前、戦後を生き抜いて来た逞しい日本女性の生き様そのものをしっかりと子どもたちに伝え、日々実践させている姿に感動した。この試みが、一日も早く全国の保育園や幼稚園、小学校や中学校にまで広がったら素晴らしい。

 何よりも、一目で見て分かる昔の子どものようにしっかりとした目つきと体つき、そして態度に育っている園児の姿に、危うげな日本の将来の一筋の希望を見たように思えて嬉しかった。







2013年11月10日日曜日

「自然に還る」生命たちに感謝!

 約一ヶ月ぶりのいわきへの帰宅。我が家は、東北の地にあり、標高500mの山上にあるので、里よりずっと早い紅葉の進み具合である。一年ぶりの秋は、しばし忘れていた見事な風景だった。

 多くの人が、紅葉は何日も続くものだと思っているだろうが、じつは、その地の本当の紅葉は、そこに住む者にしか味わえないものであり、燃える様な見事な一瞬というのは、わずかただ一日の出来事なのだ。

 残念ながらもうその時は過ぎていたが、それでも、相変わらずの感動的な秋がそこにあった。特に、敷地内とその周辺はほとんどが落葉樹なので、それぞれの木の葉が、その持てる色を競うように紅く燃えている。この地の自然の大きさに改めて感動する。何とも贅沢な風景の独り占めである。

 震災後、自宅には、特別な一度を除いて子どもらは一切帰っていない。未だに放射線量が高く、若い者たちが来るべき所ではなくなっているからだ。

 この二年半の20数回に渡る帰宅の度に、この地の変化を肌で感じて来た。その都度いろいろな思いが現れては消え、消えては現れた。そのお陰で、きっと、他の被災者同様、今に至それなりの気持ちの整理も出来て来た。

 しかし、ここで生まれ育った子どもらは、そうした気持ちの整理が出来ないままに今に至っている。どの被災地の親も、きっと私と同じように、子どもに対する申し訳なさを感じ、哀しさを感じていることだろう。

 この変わらない懐かしい風景を目の前にして、思わずカメラを持って庭に飛び出した。この自然を改めて自分の感性の中に刻みたいと思い、ここに来れない子どもらにも、この感動を見せてやろうと思ったからだ。

 きっと、自然の中で生活をする多くの人がそうだと思うが、30年間という長期に渡る暮らしとなれば、どの季節に、どの場所のどの位置に、角度に、自分の最も見たい風景があるかがはっきりと身体に刻み込まれている。

 大好きな池に浮かぶ落ち葉を撮ろうと所定の位置に向かった。と、私の気配に驚いた鴨たちが一斉に飛び立った。いつもは、大抵つがいの二羽だけだが、この日はまったく違っていた。空に飛んだ姿を瞬時に数えるのだから、そう正確な数字ではないが、すくなくとも20数羽も居る。水面から大きな羽音を立てて一斉にバタバタと飛び立った。

 「うわっ、すごい!」と驚いたと同時に、これはいつものことだが、自然の中に棲まうこうした動物たちの姿に出くわすと、瞬時に、「あっ、邪魔してごめん!」「すぐに居なくなるから戻って来て!」と思う。それは、彼らこそがこの大自然の主であって、自分はむしろ、その静かな生活を邪魔する闖入者であることをとっさに感じるからだ。

 そして、直後に決まって、こんな動物たちの居る自然の中に住まわせてもらっている幸せを感じ、まるで宝物を発見したように嬉しくなってしまう。

 震災後、私たちが生活の営みを停めてしまったこの地では、植物も動物も、すべての自然の中のいのちたちが、その営みをとどめる邪魔者が居ないことを知り、ものすごい速さで本来の自然に還ろうとしている。

 放射能で汚染され住めなくなってしまった寂しさよりも、ここにはまだ、そんな罪を犯した私たち人間に代って、いのちを賭して元の自然の姿に還そうとしてくれている自然の大きな力が遺されていることを知って、嬉しく、そして心から有り難いことだと思えた瞬間であった。

2013年10月25日金曜日

この國の国民であることが恥ずかしい!

 先日、フクシマの人間が、原発事故に対するこれまでの政府の対応を見ていて「この國の国民であることが恥ずかしい!」と言ったと聴くが、まさに同感である。

 私も、他の被災者同様、これまでの二年半、怖れ、怒り、嘆き、悲しみ、そして、諦め、喜びの様々な心境を味わって来たが、今の汚染水問題に対する相変わらずの東電の保身、政府の無責任な言動、メディアの無関心さを見続けていると、もう、そんな感情はどこかに失せてしまい、今はただただ、彼同様「この國の国民であることが恥ずかしい!」気持ちになっている。

 そして、かけがえのない海を汚し続けている暴挙に、世界の国々に対して、また、そんな汚れ切った海しか残せなくなってしまった次代に生きる人々に対して、心の底から「申し訳ない」気持ちで一杯である。被災者転じて加害者の懺悔の心境なのだ。

 事故直後、人類史上始めて経験するこの惨劇の裏側で、この悲劇によってきっとこの国は生まれ変わるだろう!そして、世界を新しい時代に導くそんな素晴らしい國になるに違いない!という大いなる希望が持った。

 しかし、どうもこの國は、まだまだ当分その樣にはなれないらしい。だとすると、当初から怖れていたように、更なる悲劇がこの國には必要なのかも知れない。被災者の一人としては、もうそんなことはまっぴらごめんだが、今のこの國の変わらなさ加減を見ていると、そう思わざるを得ない心境になる。

 人間は、自然環境を破壊し、自ら造る文化、環境によって変容、進化を遂げなければならない宿命を持った動物である。その為には、まだまだ多くの犠牲が必要かも知れないのだが...。誠にしんどいことである。

 

 

2013年10月12日土曜日

信じる方が無知で馬鹿だという話

 先日、京都で出会った放射能計測の専門家が、汚染状況を詳しく測るためにわざわざいわきの自宅まで足を伸ばしてくれた。その調査結果を見た彼が「ここはもう人間の住める場所ではないよ」と言ってくれたことが、フクシマからの撤退をいよいよはっきりと覚悟させてくれた。

 昨日その彼と話をしていて、改めて日頃我々が目にしたり耳にしている政府、東電、メディアからの情報がいかに欺瞞に満ちたものであるかを再認識した。

 その中の一つが、津波から原発を守ると言われている防護壁の問題である。決して完璧ではないだろうが、いくらかは効果のあるものだとは思っていたが、じつは、あの壁がまったく役に立たないものだという話である。

 原発は、原子炉を冷やすために巨大な管を海に伸ばして施設に大量の海水をとり込んでいる。その管の口は四六時中塞がれる事はなく海に解放されているので、津波の際には、壁があろうが無かろうが、この管を通して海水が施設に逆流するのだと言う。事実その通りに3・11では、高台にあったにもかかわらず女川原発ではそれが起こり、原子炉が停止するという緊急事態が起きていた。

 「えっ、あの莫大な税金を投入して造っている高い壁が何の役にも立たないものなの?」と聴き返した私に、「えっ、効果があると思っていたの?」といわんばかりに一笑されてしまった。「そんな大事なこと誰もからも聴いていないぞ!」と思ったが、実際、その管の存在を知ってみると、壁を高くすることがいかに無意味であるかが容易に想像できる。

 「原発完全収束宣言!」「原発は完全にコントロールされている!」に象徴されるように、我々一般市民は、政府、東電、メディアからこの二年半、散々騙され続けて来た。そして、間違いなく今後も騙され続けることだろう。騙す方が悪いのか?騙される方が悪いのか?結局は、単純にどこかで彼らを信じてしまうこちらが無知で馬鹿なのだ。と改めて知った話であった。

2013年9月30日月曜日

バーチャル時代の落とし穴

 iPhoneなるものが出現してもう大分になる。街に出ると、画面に首っ引きの若者たちの姿をどこでも見かける。電車の中は元より、歩き乍らも画面から目を離さない。人ごみの中だと思わずぶつかりそうになる。そんなこともおかまいなく、画面の中にのめり込む若者たち。

 これはもう大分以前の話だが、いわきでセミナーの参加者を駅まで迎えに行った帰り、車窓から田園風景を見ていた若い女性が、突然「わあ、トトロの世界みたい!」と叫んだことがあった。

 普段見慣れない田舎の風景を目にして、感激の余り思わず出た言葉だったと思うが、それを聞いた途端、私の頭の中は少々混乱した。「えっ、この風景がトトロじゃなく、トトロがこの風景のようだ!じゃないの?」と。

 改めて彼女に聴きかえしもしなかったので、その言葉の真意がどっちだったかは分からないが、私にはその発想が、現実と虚構がまったく逆転している言葉の樣に思えて、とても衝撃を受けたことを思い出す。

 きっと、彼女の頭の中にある田園風景は、現実のそれよりももっとリアルにトトロの絵の中にこそ有り、それこそが、彼女の理解する田園風景なのだろう。これはきっと、現代の多くのiphoneに夢中の若者たちの頭の中でも同じことが起きているに違いない。リアル(現実)がどんどんバーチャル(虚構)になって行き、バーチャルがますますリアルになって行っている。

 大分前から、これからの世界は、現実から虚構が生まれるのではなく、虚構の世界が、現実を創造し、コントロールして行くと言われて来た。そんな未来予測が現実のものとなり、世界の至ところに出現していることを感じる。

 東北大震災の津波に襲われた時、それぞれのとっさの判断で避難した人たちの命が救われ、マニュアルに縛られて身動きが取れなかった多くの命が失われた。災害時こそ、現実の状況に即した判断、決断、行動が求められる。襲い来る津波を背に、iphoneの画面を見乍らでは絶対に逃げられない。

 生命の危機の時代、気候異変、グローバル化の激流の中で、これまでとは想像もつかないくらいに想定外のことが起こり得るこれからの時代に、果たして、現実感覚の乏しいこうした若者たちが、とっさの出来事に対し自ら的確に判断し、行動し、生き延びて行く事ができるのだろうか?と、大いに心配になっている。シニアの年越し苦労で終わってくれれば何よりだが....。

2013年9月26日木曜日

サイゴニカツモノタレ!


 自然食ブームや多くの有名人が実践する「食物による健康法」の先駆けとして世界的に知られるようになった「マクロビオティック」は、日本人の桜沢如一(さくらさわ ゆきかず/1893年〜1966年)がその創立者である。

 国の内外を問わず多くの弟子を育てた彼は、戦前、フランスのパリを拠点に活動を展開していたが、第二次世界大戦が始まり、学徒出陣などで次々に戦争に駆り出されて行く日本の弟子達に向けて、反戦のメッセージと知られないように打った電文が「オシモノヲツツシミテ、サイゴニカツモノタレ!」だった。

 今、世界は、これまでに見られなかったほど危機的な状況に見舞われている。気候変動による洪水や干ばつ、竜巻、原発事故、戦争の危機や経済格差、テロや凶悪犯罪、飢餓や貧困等々。これまで危惧されていた地球規模の危機的課題が次々と現実のものとなっている。まるで戦時下の樣だと、戦争を知らない身でもつくづくそんな危機感を日々感じる。

 生物は、長いサバイバルの歴史の中で、飢餓の環境を必死で生き抜いて来た。そのために飢餓には本来とても強い。動物が病気や怪我をした時に断食をするのは、自らの生命力、治癒力を引き出すためのいのちがけの賭けでもある。

 唯一、人間だけはこの本能を忘れてしまっている。それどころか、「飽食、美食」という未だかつて生物が体験したことのない未知の領域に挑み続けている。そして今、その勇気ある挑戦者たちが次々と倒れて行っている。

 生活環境が厳しくなればなるほど、生き物は、その持てる本能を全開にして生き抜く力を高めていかねばならない。どんな環境下でも、「自分のいのちは自分で守る!」ことが生き抜くための必須条件となる。食のコントロールは、そのための生き残りの智慧。「食しものを慎みて最後に勝つものたれ!」は、生命の危機の時代を迎えた我々への、先人からの熱きメッセージでもある。宙八