日本最古のお寺と言われる奈良県飛鳥寺での二度目のセミナーが終わった。この明日香村との縁はもう3年になる。
ここに来る度に、このゆったりと爽やかで落ち着いた山里の高原の雰囲気の良さに感動する。やはり、昔の人は、こうした落ち着く場所で身体や心が癒されることが分かっていて、こんな場所に都を造ったのだろう。
それは、今も昔も変わらないことだ。いのちを変えるにはやはり、良い食事と緑一杯の自然環境が欠かせない。きれいな食事で身体をブラッシュアップし、気持ちの良い環境に浸るだけで偏った身体や心は驚くほど容易に改善される。
しかし、知れば知るほど、現代ほど病んでいる人の多い時代も無い。原因は言うまでもなく、人が自然の心地良さや大切さを忘れ、あまりにも人工的な環境に身を置くようになってしまったからだ。そして、命は食によって造られ、養われているのだと言うあまりにも当たり前のことを忘れてしまったことにある。
長年いのちと食、病気との因果関係を眺めて、つくづくと病気は有り難いものだと思う。病気とは、世間で言うように闘う敵などでは決してない。いのちの偏りを我々に教えてくれる、じつに有り難い危険信号なのだ。
「病気とは、人間にとってより良い環境とは何かを知る為に存在する」とは、ギリシャの医聖であり、現代医学の父とも言われるヒポクラテスの言葉だが、まさにその通りである。現代に病気が蔓延している理由を、見事に一言で言い表している。
これから病気はますますいろいろな原因が複雑に絡み合い、多様化して行くことだろう。しかし、少しでも自然な食事を心がけ、自然環境の中に身を置けば、不思議なほど容易に改善されるものでもある。ぜひ、実感していただきたい。
2014年4月9日水曜日
病気の改善にも「断捨離」を!
世の中、これだけ何事につけ「もっともっと」の時代が続くと、「捨てる」「手放す」「心静かに」「頑張らない」と言った言葉がどこからともなく出て来る。それらを推奨する本がベストセラーになったりもする。良くしたものである。
この断つ、捨てる、手放すと言った発想。特に、病気という課題に取り組む際にはとても重要なことである。と言うよりも、この発想が持てるかどうかが、病気をどれだけ早く改善できるかどうかの大きなポイントとなるのだ。
特に、飽食、美食がその原因と思われる現代病の激増。これら慢性病の改善には、この断つ、捨てる、手放すと言った心の持ちようがとても大切だ。一言で言うなら、どう生活を改善し、食の執着から離れ、小食、小飲を頭と身体でしっかりと理解し、実践できるようになるかにかかっている。
その大きな理由の一つが、人間は、人類史上絶えず飢えていたという事である。そのため、飢えを耐え、乗り越える力は元来、人間の命の中に備わっているが、反対に、美食、飽食の経験はなかったために、それに対する抵抗力、免疫力が、我々の命にはまだ備わっていないのだ。
従って、この現代病、慢性病の改善には、腹を空かせることが一番だと言う論理が成り立つ。その通り、これまで小食、小飲による心身改善法である「半断食」を十数カ国8000人以上に体験してもらったが、この健康法は、どの国の人たちにも間違いなく通用した。
抱えた病気や状態を改善しようと考えたら、これまでの食の習慣を捨てる、執着を手放す、そんな気持ちの転換をまずは試みたら如何だろう。ぜひ実践してもらいたいことである。
この断つ、捨てる、手放すと言った発想。特に、病気という課題に取り組む際にはとても重要なことである。と言うよりも、この発想が持てるかどうかが、病気をどれだけ早く改善できるかどうかの大きなポイントとなるのだ。
特に、飽食、美食がその原因と思われる現代病の激増。これら慢性病の改善には、この断つ、捨てる、手放すと言った心の持ちようがとても大切だ。一言で言うなら、どう生活を改善し、食の執着から離れ、小食、小飲を頭と身体でしっかりと理解し、実践できるようになるかにかかっている。
その大きな理由の一つが、人間は、人類史上絶えず飢えていたという事である。そのため、飢えを耐え、乗り越える力は元来、人間の命の中に備わっているが、反対に、美食、飽食の経験はなかったために、それに対する抵抗力、免疫力が、我々の命にはまだ備わっていないのだ。
従って、この現代病、慢性病の改善には、腹を空かせることが一番だと言う論理が成り立つ。その通り、これまで小食、小飲による心身改善法である「半断食」を十数カ国8000人以上に体験してもらったが、この健康法は、どの国の人たちにも間違いなく通用した。
抱えた病気や状態を改善しようと考えたら、これまでの食の習慣を捨てる、執着を手放す、そんな気持ちの転換をまずは試みたら如何だろう。ぜひ実践してもらいたいことである。
2014年4月5日土曜日
相撲にみる日本人の命の原点
京都に住んでいるお陰で、被災者はいろいろな催し物に招待して貰える。先日は大相撲京都場所を見せてもらった。昔一度見たことはあったが、何十年ぶりかに見る生の相撲であった。
相撲がなぜ国技なのか?その理由を知りたいと思って見たが、なるほどこれが国技の理由かと自分なりに解釈して大いに楽しめた。
相撲はかつて神事だったそうだ。なるほど、行事の衣装や横綱のしめ縄も、神社のそれと同じとするなら、横綱は、俗界を超えて神界に入った人間だという解釈もあり得る。勝手な自分の解釈だが、これはすごいことだと思った。
土俵入りに弓取り式、四股(シコ)を踏むことのどれもが、その場の邪気払いだそうな。三役そろい踏みに見る関取の立ち方も、正面に向い東西逆三角形の対を成す。なぜ南北ではなく東西なのか等々。相撲を神事と思って見ると、じつに興味深いことが一杯あった。
気がつくと、狭い椅子に座って朝の8時過から午後3時までぶっ通しで7時間も見てしまった。これが意外に疲れてなく、むしろ、見る前よりも体も気も元気になって随分癒された気分になっていたのには驚いた。
相撲は、プロレスやボクシングと同じ格闘技と見られがちだが、見た印象からすると、そうしたものとはまったく似て非なるものである。
人は興奮すると「頭に血が上る」と言うが、その言葉通りに格闘技は見てるだけで頭に血が昇ってカッカする。そんな興奮が良くて見るものだとも思うが、相撲の場合は、そんな興奮具合とはまったく違う。
いい取り組みになればたしかにワーっと湧いたりもするが、それが、まったく違う楽しみ方なのだ。言うなら、勝敗はどっちが勝っても負けてもいい、それがいい取り組みでさえあれば、勝ち負けにこだわらずに誰もが喜ぶ。どっちの相撲取りをも賞賛する。そんな楽しみ方だ。
相撲の基本は、四股(シコ)踏みにあるようだ。稽古の際、出番を待つ間相撲取りは、ひたすら四股を踏みながら待つ。いい相撲取りほどじつに見事な、見ていて惚れ惚れする四股を踏む。
なぜ、四股がそんなに大事なのかと考えたが、自分でその真似をしてみて分かった。四股とは、じつに足腰が大地にしっかりと落ち着く運動なのだ。踏めば踏むほど体全体のバランスが取れてどっしりと安定する。なるほど、相撲では、そのためにやるのかとの勝手な解釈である。
と同時に、相撲がなぜ国技かの理由もそれなりに分かった気がした。この大地にしっかりと気を下げ、体全体をどっしりと安定させる。これが相撲にとっては何よりも大事な基本なのだろう。いや、じつは、この四股にこそ相撲の真髄がある。これも自分の勝手な解釈である。
今、日本人の気は、随分と上ずってるなと感じる。言うなら、興奮させる神経ばかりが過剰に働いていて、気持ちも体もまるで地に足がついてない命になってしまっているように思えるのだ。
それはきっと今の日本人が、知識や情報を得ることばかりに夢中になって、都会の喧噪やモノへの執着、ストレス一杯の人間関係の中で、絶えず神経が高ぶっていて興奮状態にあるからなのだろう。
相撲が国技である理由は、型の中にそのすべてが現れていると見た。日本人の食の原点である米俵に囲まれた円の中で、塩の気をたっぷりと含んだ土俵は、まさに地球の大地そのものである。その大地の気を存分に浴び乍ら、裸の体と体とがぶつかり合い互いにその力を高め合う。日本人の命の原点が乱舞する様を神前に捧げる儀式。相撲とは、そんなマツリゴトなのかも知れないと思った。
残念なことに、今、横綱は3人とも外国人だ。なぜ、日本人からなかなか横綱が出ないのか?これは、あらゆる分野にも言えることだが、今の日本人の心身の脆弱さが、国技の上にも見事に現れているようにも思えた。
誰もが待ちわびている日本人の横綱。果たしていつかは実現するのだろうか?取り戻したい日本人の命の原点を相撲に見た。相撲はまさに日本人の国技そのものであった。
2014年4月4日金曜日
食の講演会のお知らせ
■講演名:橋本宙八講演会「食で変える、心と身体」
■日時:4月6日(日)13:00〜15:30
■場所: Vegecafe&Dining TOSCA
■会費:1,000円
■定員:25名
■お問合せ/申込は→コチラ
電話→080-1095-9731
メール→kioma.hashimoto@gmail.com
担当:橋本樹生馬まで
■詳細テーマ:食の研究と実践40年/食といのちの関係/食の本質とは/半断食による体質改善法ほか
■日時:4月6日(日)13:00〜15:30
■場所: Vegecafe&Dining TOSCA
■会費:1,000円
■定員:25名
■お問合せ/申込は→コチラ
電話→080-1095-9731
メール→kioma.hashimoto@gmail.com
担当:橋本樹生馬まで
■詳細テーマ:食の研究と実践40年/食といのちの関係/食の本質とは/半断食による体質改善法ほか
2014年3月25日火曜日
自然ないのちは枯れて終わる
自然食の店で買ったりんごが一袋。気付かない内に二ヶ月間ほど冷蔵庫の奥に眠っていた。もう腐ってダメかなと思い袋を開けてみたがどうやら大丈夫そう。
おそるおそる皮をむいて一個食べてみたが、堅さも味も新鮮そのものでまったく問題ない。どころか、青臭さが抜けてじつに甘くて旨かった。この大丈夫さには正直、改めて驚いた。
野菜でも果物でも、時間が経てば腐って終わるのが普通だと考える。特にこの頃の野菜や果物は、普通栽培のものであれば特に、大量の農薬が散布され化学肥料によって育てられているので、まず間違いなく腐って果てる。
たとえ、今注目の有機野菜であっても、牛糞や鶏糞、豚尿などを過剰に入れたものは腐り易い。料理をすると、煮えるに従って肥料の嫌な臭いがプンと鼻をつくことさえある。
かつて、タマネギ農家の友人が、化学肥料も有機の肥料も使わない自然農法で栽培されたタマネギは目にしみないと言っていたことを思い出す。彼は、いろいろな栽培法をやっていたので、狭い車でタマネギを運ぶ際にその違いが分かったのだと言う。常識外れの事実にえらく共感をしたものであった。
これには思い当たる節があった。いわきの我が家でも、かつては、肥料もやらず耕しもせずのほったらかし栽培でやっていたが、この自然に近い栽培で育った野菜は、どれもがじつにさりげない味で、不思議なほど大根臭さや人参臭さと言ったアクがなかった。そして、大根でもカボチャでも、長期間保存が出来て、最後は決まって腐らずに枯れた。野草の最後と同じである。
腐る野菜や果物は、食べることが出来なくなるが、枯れる野菜や果物は、どんなに時間が経っても枯れているので食べることが出来る。乾燥野菜になってもまだ食べられるのだ。それが本来の野菜や果物の姿でもある。
これは人間の体についても言えることだ。これだけ大量に日々化学物質や不自然な食べ物を体内にとり込んでいては、腐って当たり前の身体である。死んだ後の噂などどうでもいいが、「腐って死んだ!」ではあまりにも情けない。せめて「枯れるように死んだ!」と言われる命でいたいものである。
おそるおそる皮をむいて一個食べてみたが、堅さも味も新鮮そのものでまったく問題ない。どころか、青臭さが抜けてじつに甘くて旨かった。この大丈夫さには正直、改めて驚いた。
野菜でも果物でも、時間が経てば腐って終わるのが普通だと考える。特にこの頃の野菜や果物は、普通栽培のものであれば特に、大量の農薬が散布され化学肥料によって育てられているので、まず間違いなく腐って果てる。
たとえ、今注目の有機野菜であっても、牛糞や鶏糞、豚尿などを過剰に入れたものは腐り易い。料理をすると、煮えるに従って肥料の嫌な臭いがプンと鼻をつくことさえある。
かつて、タマネギ農家の友人が、化学肥料も有機の肥料も使わない自然農法で栽培されたタマネギは目にしみないと言っていたことを思い出す。彼は、いろいろな栽培法をやっていたので、狭い車でタマネギを運ぶ際にその違いが分かったのだと言う。常識外れの事実にえらく共感をしたものであった。
これには思い当たる節があった。いわきの我が家でも、かつては、肥料もやらず耕しもせずのほったらかし栽培でやっていたが、この自然に近い栽培で育った野菜は、どれもがじつにさりげない味で、不思議なほど大根臭さや人参臭さと言ったアクがなかった。そして、大根でもカボチャでも、長期間保存が出来て、最後は決まって腐らずに枯れた。野草の最後と同じである。
腐る野菜や果物は、食べることが出来なくなるが、枯れる野菜や果物は、どんなに時間が経っても枯れているので食べることが出来る。乾燥野菜になってもまだ食べられるのだ。それが本来の野菜や果物の姿でもある。
これは人間の体についても言えることだ。これだけ大量に日々化学物質や不自然な食べ物を体内にとり込んでいては、腐って当たり前の身体である。死んだ後の噂などどうでもいいが、「腐って死んだ!」ではあまりにも情けない。せめて「枯れるように死んだ!」と言われる命でいたいものである。
2014年3月20日木曜日
原発関連講演会のお知らせ
宙八おすすめの<講演会のお知らせ>
—福島第一原発立地地域元町長が語るー
「原発事故から見えたもの」
井戸川さんは、県外避難を決断した勇気ある町長として世間の注目を集めた時の人でした。そんな町長であったがために、町民、東電、政府の間に立って、想像を絶する体験をされました。
今回の講演では、どうすればこれ以上被爆者を出さずに済むか?事故をどう収束させるべきか?この惨劇を二度と引き起こさないためには何が必要か?今、私たちに出来ること、等々、井戸川さんならではの原発事故の体験と意見をじっくりと伺いたいと思います。
<講師プロフィール>
井戸川克隆(いどがわ かつたか)
1946年福島県に生まれる。福島県立小高工業高等学校・機械科卒
1978年株式会社丸井設立代表取締役就任・2005年退社
2005年~2013年福島県双葉町長を務める。福島原発の重大事故を受け、福島県の首長の中でただ一人町民の県外避難を実現させた。2012年10月と2013年5月にはジュネーブの国連人権理事会総会に赴き、原発事故後の福島の窮状を訴えた。多くの県民が汚染地帯で留め置かれたまま被曝し続けている現状を憂い「被曝を止めるために一身を捧げる」とし、全国各地を周り講演等で訴え続けている。
■2014年3月22日(土) 13時半~15時半
講師: 井戸川克隆氏(元福島県双葉町町長)
場所: 港区エコプラザ 3階会議室A
(東京都港区浜松町1-13-1 浜松町駅から徒歩4分)
2014年3月19日水曜日
危険な味覚の退化
こどもの頃。化学調味料は、頭を良くするものだと洗脳された。漬け物やトマトにまで、真っ白にかけて食べたものである。ラーメン屋に入るとどうしてラーメンはこんな旨い味が出るのか?カウンターの中を覗いて、それが、サジ山盛りの化学調味料によるものであると分かり、家の食卓でも真似ていたものである。
この頃の外食では、漬け物や野菜、果物の味が極端に悪くなっていることに気付かされる。当たり前の自然な味を持った漬け物に出会うことがほとんどない。一口食べただけで、明らかに薬物処理されたものであることに気付く。とても飲み込める代物ではないのだ。
サラダの野菜や果物もまったくいただけない。勿論、外食でオーガニックの野菜や果物などは期待すべくもないが、とにかくどちらもまずい。とても野菜とは言えない味気のない野菜だったり、果物なんかも、まるで違和感のある甘みで辟易する。しばしば、洗剤の味が口の中に広がりこれまた飲み込めたものではない。
梅干しに至っては、モノがモノだけに最悪である。まるで、塩味や酸味が敵でもあるかのように、おしなべて妙な甘い味がついている。焼酎漬けなどはまだいい方で、しばしば、食べて気持ちが悪くなる薬物で処理されている。そんな梅干しが、ホテルなどでも今や当たり前のものになってしまった。
現在の食品技術を持ってすれば、とにかく、ありとあらゆる食品の味つけが、薬物処理でコントロールできるそうだ。卵や魚の切り身、肉等もほぼ間違いなく旨味が味付けされていると言う。そんなニセモノを食べて旨いと思ってしまうのだから、売る側にとってはこれほど楽なことはない。
本来、味覚は、美味しさを知る感覚であると同時に、危険を察知する感覚でもある。それが、ほぼすべてと言っていいほど食品がこうした技術で処理されていて、いわば、味が偽装されているので、いつの間にか、もうそのニセモノの方が本来の味なのだと錯覚するまでになっている。じつに情けないことである。
今後、食のグローバル化はどんどん進む。これまで国内でそこそこに規制されていた食品もいよいよどれもがフリーになる。表示義務も、売る側の都合で勝手に無用の時代になって行く。いのちにとっては恐ろしく危険な時代に突入する。いや、すでにもうそうなってしまっていることに気付く必要がある。
現代のあらゆる病気の温床が、この食物の危険な処理、品質の劣化の上にある。この食の激動の時代を生き抜いて行く為には、本来の味をしっかりと嗅ぎ分けられる舌を持つ事がとても大切だ。不自然な食は、ますます自然の味の分からない舌をつくる。騙されない味覚を持つことがサバイバルの条件となる時代である。
この頃の外食では、漬け物や野菜、果物の味が極端に悪くなっていることに気付かされる。当たり前の自然な味を持った漬け物に出会うことがほとんどない。一口食べただけで、明らかに薬物処理されたものであることに気付く。とても飲み込める代物ではないのだ。
サラダの野菜や果物もまったくいただけない。勿論、外食でオーガニックの野菜や果物などは期待すべくもないが、とにかくどちらもまずい。とても野菜とは言えない味気のない野菜だったり、果物なんかも、まるで違和感のある甘みで辟易する。しばしば、洗剤の味が口の中に広がりこれまた飲み込めたものではない。
梅干しに至っては、モノがモノだけに最悪である。まるで、塩味や酸味が敵でもあるかのように、おしなべて妙な甘い味がついている。焼酎漬けなどはまだいい方で、しばしば、食べて気持ちが悪くなる薬物で処理されている。そんな梅干しが、ホテルなどでも今や当たり前のものになってしまった。
現在の食品技術を持ってすれば、とにかく、ありとあらゆる食品の味つけが、薬物処理でコントロールできるそうだ。卵や魚の切り身、肉等もほぼ間違いなく旨味が味付けされていると言う。そんなニセモノを食べて旨いと思ってしまうのだから、売る側にとってはこれほど楽なことはない。
本来、味覚は、美味しさを知る感覚であると同時に、危険を察知する感覚でもある。それが、ほぼすべてと言っていいほど食品がこうした技術で処理されていて、いわば、味が偽装されているので、いつの間にか、もうそのニセモノの方が本来の味なのだと錯覚するまでになっている。じつに情けないことである。
今後、食のグローバル化はどんどん進む。これまで国内でそこそこに規制されていた食品もいよいよどれもがフリーになる。表示義務も、売る側の都合で勝手に無用の時代になって行く。いのちにとっては恐ろしく危険な時代に突入する。いや、すでにもうそうなってしまっていることに気付く必要がある。
現代のあらゆる病気の温床が、この食物の危険な処理、品質の劣化の上にある。この食の激動の時代を生き抜いて行く為には、本来の味をしっかりと嗅ぎ分けられる舌を持つ事がとても大切だ。不自然な食は、ますます自然の味の分からない舌をつくる。騙されない味覚を持つことがサバイバルの条件となる時代である。
登録:
投稿 (Atom)