2014年9月24日水曜日

母から学んだ人生の終わり方

 私事ですが、母が逝きました。100歳まであと一歩、数えで99歳と半年あまりの天寿を全うしての終わり方でした。82歳で認知症を発症、止むなく、地元の介護施設で十数年お世話になったお陰での長寿だったと思います。
 少し前まで元気で食べていた母でしたが、ここ一二年は嚥下能力が落ちてゼリー状の食事となっていました。それもここ数ヶ月は次第に食べる量が少なくなり、死ぬ直前の40日間はまったく食べ物を寄せ付けず、水分補給のための点滴だけとなっていました。逝くのも時間の問題と覚悟をしていましたが、亡くなる当日は、介護の人に昼にお風呂に入れてもらい、その夜に誰にも気付かれず眠るように亡くなったと言う見事な終わり方でした。
 いのちの終わり方は、人が誕生してから食べ物を食べることで次第に成長して行くのとは反対に、食が細くなることで過去に蓄えた肉体を少しずつ消費しながら、やがてそれらを使い終わり、食べなくなって枯れるように死んで行くと言うのが本来の死に方であることを、母の逝き方から改めて学んだように思います。自分の理想とする死に方の見本を見せてくれた母でした。 
 よく世間では「ピンピンコロリ」が理想の死に方と言われているようですが、さっきまで元気でいきなりコロリと死ぬなどと言う事は、健康な人間にとっては本来、ない死に方だと言うことも分かりました。こういう死に方は、心筋梗塞や狭心症、脳梗塞等のいわゆる病気から来る突然死であって、これで死ぬには、こうした病因をつくる努力が必要であることもまた学んだ気がします。
 

危機をチャンスに変えた町


 皆さんの中には、四国の山中でお年寄りが料理に使う木の葉を売って生計を立てている町があるという話を聞いたことがある人が居るのではないでしょうか?この町は、全国で課題となっている地域の過疎化、高齢化を解決するモデルケースとして、今でも様々な分野から注目されています。
 その町とは、徳島県の山中にある上勝町。徳島駅から車で40分ほどの山間地にある人口2000人ほどの町ですが、高齢化率はなんと50%。そんな町にたまたま縁あってここの町おこしに関る人から、私がやって来た食による健康法を町おこしの新しい事業として検討したいと言う話が飛び込んで来て、先日、現地に行って参りました。
 この町では、20年前に、過疎化、高齢化する町民対策として、年配者でも仕事が可能な、町内に山ほどある木の葉を収集して日本料理の飾りとして売るという新しいビジネスを発案し立ち上げました。
 それが見事に当たって、やがてこの町の主要産業ともなり、その斬新なアイデアがニュースとなって、新聞、雑誌、テレビ、映画にまで取り上げられ、今では全国から自治体、大学等の様々な分野の専門家や研究者までもが、頻繁に視察に訪れるようになっています。
 この町のもう一つの素晴らしい事業は「ゴミゼロ宣言」。つまり、町の中からゴミを限りなくゼロにしようという活動です。勿論、ゴミの分別の重要性は誰もが知っていますが、この町の驚くほど徹底した分別の様子を見て、ゴミに対する私の考え方がガラリと変わり、まさに目からウロコの体験でした。
 この町には、ゴミの収集車が一台もありません。町内で出るゴミはすべて、町民自身が収集場に運びます。運ぶことの出来ない人は、周囲の人が助ける仕組みになっています。そして、そのゴミを収集場で町民自身が36種類もに分別するのです。
 その見事なまでの分別作業には、本当にびっくりしました。割り箸一つでさえ、竹製か木製かまでしっかり区別し分けるのです。ここまで徹底して分別されると、ゴミは、分けた瞬間からゴミではまったくなくなります。じつに立派なリサイクル資源として、たちまち貴重な町の財産となるのです。
 タンスや机などの大きな家具からコルクの栓一つに至るまで、すべてのゴミが、この収集場に運びこまれて立派なリサイクル製品として生まれ変わっています。そして、それらは、誰もがいつでも必要であれば勝手に持って行っても良いことになっているのです。
 ただし、この持ち込みや持ち出しのやりとりは、その度全員がノートにしっかりと記帳します。ゴミの収支がどうなっているかを役所でしっかりと記録するためです。
 普通ならとっくに捨てるわずか5センチほどの鉛筆でさえも、ここでは捨てることなく棚に並べられていました。紙や鉄、プラスチック類の素材は、溜まると業者が引き取りに来るのだそうです。
 「くるくる」と名付けられたこの収集場は、どう見ても私たちが知るゴミの収集場などではなく、ありとあらゆる日用品が揃ったじつに素敵なリサイクルショップそのものでした。それも、すべてが無料のショプなのです。
 この町を全国に知れ渡るようにした「いろどり」と呼ばれる木の葉ビジネスでは、年収1000万円を稼ぎ出すお年寄りが居るそうで、他の地域では見られないほどお年寄りたちがイキイキと生活しています。また、このゴミゼロ宣言は、危機こそチャンス、やればできると言うことを全国に知らしめています。
 ここでではさらに、豊富な木材を使った自然エネルギーの自給や大自然を利用したカヤックなどのスポーツ観光から、シェアカフェのような若者たちがこの地に住みたいと思うような斬新なアイデアが一杯でした。
 ただただ環境を破壊してモノを作っては消費し、ゴミにしている現代社会の深刻な問題も、自治体の提案と国民一人一人の頭の切り替えとわずかな実行力で、見事に改革ができるのだと言う事を実感しました。
 今後、私がこの町とどう関るようになるかは分かりませんが、もし、町民の一人一人が食で健康を自己管理できるようになって「医療費ゼロ宣言」と言うどの地域でも未だなし得ていない危機的課題に取り組む町になったとしたら、それこそ、この町は、世界を変える町になるかも知れません。そんな可能性さえ感じさせてくれる町でした。
 もし、こんな田舎町の取り組みが、全国の過疎地のあちこちで始まったら、誰もが、危機こそまさにチャンスだと言う希望を持つに違いありません。先見の明と勇気ある挑戦、確かな実行力の上勝町に心から拍手を送りたいと思います。そして、ぜひこの町の試みが全国に広がってくれたらいいなと思いました。
※上勝町のホームページをご覧下さい。www.kamikatsu.jp/
 

2014年7月30日水曜日

崩壊が止まらない人間のいのち

 世間で言う優秀な16歳の女の子が、15歳の同級生を殺して、頭や手首を切断した。動機は「人を殺して見たかった。遺体をバラバラにすることに関心があった」このニュースが今、全国の子を持つ親、教育者を震撼させている。
 1997年に、少年が小学生を殺して、その首を校門前に置いたことで全国を驚愕させた「酒鬼薔薇事件」を思い出させる事件である。
 最近は、こうした猟奇事件が後を絶たないせいか、17年前の事件の方が、はるかに世間を驚かせたような記憶がある。こうした事件が次々と続くことで自分も世間も慣れてしまっていることに、改めて怖さを感じる。
 心理学の専門家は、「少女は、人格の中に精神病質的な部分を長期間にわたって抱えていたのではないか?亡くなった母親が、社会との接点をつなぎ止めておく唯一の存在だったが、その死によって、少女の中に潜んでいた人格障害を一気に悪化させた可能性がある。母親の死後、すぐに再婚した父親も大きな原因となった。」等の分析を発表している。
 たしかに、そうした心がこの事件を起こしたことは間違いないことだと思う。がしかし、母親が死んだ、父親が再婚した。などと言った出来事は、今の時代に始まったことではない。長い人間の歴史の中で、どの時代にもどの社会にもいくらでもあった。にもかかわらず、これほどまでの事件にはならずに済んでいた。
 16歳の少女。本来なら、どんな大人よりもはるかに人間としての優しさ、感性の豊かさを持っているはずの歳である。そんな少女が、完全に人間としての感性を崩壊させてしまった。自分どころか母親の、また父親の、人間そのものが分からなくなってしまったのだ。人間が生き物なのかモノなのかさえ・・・・。
 それは、まるで子どもが、オモチャの動きの秘密を知りたくて、プラスチックのオモチャをばらすようにして起きた事件でもある。もしかしたら、この友人の身体をバラバラにしたら、失った母親の愛や自分を捨てた父親の憎しみ、または、自分を慕ってくれた少女の心の破片がどこかに見つかるかも知れないと思ったのかも知れない。そんな心を宿す仕組みが身体のどこかに発見できるかも知れないと思ったのかも知れない。そんな押さえ難い好奇心が暴走して、とうとう友人を殺してしまったのではないだろうか。
 今、世界のあちこちで戦争が起こり人が殺し合っている。テロリズムでも数々の猟奇事件でも、我が国の多くの人もそれに同調し、戦争への道を開こうとしている。世界中で起きている環境破壊、生物の種の絶滅、原発事故、どれもが、人間が人間としての感性を崩壊させてしまったところから起きている出来事だ。そして、これらの出来事は、間違いなく、今回の事件を起こした日本の一少女のいのちともシンクロ(共振)している。世界の至るところで、人間のいのちの崩壊が止まらなくなってしまっている。
  

2014年7月11日金曜日

ミツバチ減少で知る自然の危機的状況

 先日、友人の縁で、京都市の郊外で養蜂を営む家を訪ねる機会があった。そこでは、年に二回ほど交流会が開かれていて、屋外で食事を楽しんだり、夜には蛍を鑑賞したりして、互いに交流を深めあう、そんな会だった。様々な分野の人たちの集まりで、とても楽しい一時でもあった。

 そんな養蜂家の口から、ここ数年はミツバチの数が極端に少なくなったと聞いた。そのために、もう自分のところだけでは十分なハチミツが採れないので、いろいろな人たちに養蜂箱を委託して、蜜を集めてもらっているそうだ。

 ミツバチは、例年に比べて半減以下になったそうである。世界的にもミツバチが減少していることは、ネットやメディアで知ってはいたが、当事者の話は想像以上に深刻な状況を実感させてくれた。

 原因は、田んぼや畑の農薬の散布によるものだと言う。農薬の散布でミツバチが死んだ事実が、ミツバチの死骸から検出された農薬で分かったそうである。携帯用の電波塔からの電磁波の問題も取りざたされてもいる。他にもまだまだ多くの原因が潜んでいるかも知れない。

 いずれにしても、ミツバチは、植物にとっていのちをつなぐ重要な受粉や交配の役割を果たしている。ミツバチが居ることで植物は花を咲かせることが出来、野菜や果物も実をつけることが可能となる。ミツバチの消滅はそのまま自然環境の仕組みの破壊、食糧生産への危機的問題へとつながる。

 生命にとってかけがえの無い自然環境は、あらゆる昆虫、動物が一体となって創造し、織りなす世界である。その一員であるミツバチが減少するだけで、植物の世界は二度と回復が出来ないほどに破壊されてしまう可能性があるのだ。

 ミツバチが働いてくれているお陰で、私たち人間は畑で野菜や果物を栽培することができる。もしミツバチが居なくなったら、自然界は?食糧の問題は、一体どうなってしまうのか?考えただけでも恐ろしいことである。

 農薬の使用は、農業に携わる人たちへ大きな健康被害をもたらす。そして、ミツバチを殺した結果、そのつけは間違いなく私たち人間の世界にも回って来る。自然界は、あらゆる生物が一心同体となって織りなすたった一つの世界なのだ。

 そんな自然をことごとく破壊し続けながら、人間だけは栄えることが出来ると言うことはあり得ない。そんな妄想はもう止めなければならない。かけがえのない自然環境が、想像以上に待った無しの状況にあることを改めて教えてもらった、貴重な集いでもあった。


2014年6月13日金曜日

「戦争への道はダメ!絶対にダメ!」


 子どもの頃見たテレビドラマに「人間の条件」がある。毎週、戦争に向き合う主人公に自分の身を置いて、自分ならどんな決断と行動をするのだろうか?と、身震いし乍ら見ていた記憶がある。
 戦争の悲惨さを身をもって知る人間で、戦争をやりたいなどと思う人は居るはずがない。いや、そんな戦争体験者でなくても、ごく普通の想像力を持つ人間であれば、どんな理由があろうとも、戦争は絶対にやっては行けないことであることくらいは、当たり前に分かっているはずである。
 しかし、我が国では今、そんな、あって当たり前の想像力ですら多くの国民が失いつつあるように思える。他でもない国政の最高責任者である首相自らが、政権を担う政治家たちの先頭に立って、向かっては行けない戦争への道をやっきになってこじ開けようとしている。まったく信じられないことである。
 そんな彼らは、口先で言うこととはまったく反対に、エゴ丸出しの政治的野望と自己の利益だけで動いている。誰にも透けて見えていることだ。どんな立場の人間よりもリアリティを持たなければならないはずの政治家が、戦争に加担することのリアリティの無い言動を繰り返し、誤った道へ国民を誘導しようとしている。余りにも危険なことである。
 もし、百歩譲って彼らの主張を聞けと言うのであれば、彼ら自身がまず真っ先に、戦争の前線に立つ覚悟を持っているかどうかを聞きたい。そして、その前線の場に、他人の子や孫ではなく、自分の子や孫を立たせる覚悟を持っているかどうかも聞きたい。それをまず確約すべきだ。それが最低の条件である。
 その覚悟が無いのなら、戦争へ加担するような無謀な政策や言動は厳に慎むべきである。「国民の安全と平和を守るのが政治家の役割だ」などと心にもない言葉を吐くべきではない。
 戦争は、敵味方の関係なく、すべての人の人生、生命と生活と文化のすべてを破壊、消滅させる道である。戦争に勝利者は居ない。言うまでもないことだ。 そして、今こそ政治家は、本来の仕事の原点に立ち戻り、平和を築くための外交によって、戦争を阻止することにこそ命を賭けて努力すべきである。
 戦争は、どんな理由があろうとも絶対にしては行けないことだ。自己主張をしないことで知られる私たち日本人は、勇気を持って今こそ「戦争はダメ!絶対にダメ!」と声を上げる必要がある。当たり前の心を持った大人が、当たり前の声を上げる、それこそが、今、何よりも求められていることなのだと思う。

2014年5月7日水曜日

食と環境の大切さ

 日本最古のお寺と言われる奈良県飛鳥寺での二度目のセミナーが終わった。この明日香村との縁はもう3年になる。

 ここに来る度に、このゆったりと爽やかで落ち着いた山里の高原の雰囲気の良さに感動する。やはり、昔の人は、こうした落ち着く場所で身体や心が癒されることが分かっていて、こんな場所に都を造ったのだろう。

 それは、今も昔も変わらないことだ。いのちを変えるにはやはり、良い食事と緑一杯の自然環境が欠かせない。きれいな食事で身体をブラッシュアップし、気持ちの良い環境に浸るだけで偏った身体や心は驚くほど容易に改善される。

 しかし、知れば知るほど、現代ほど病んでいる人の多い時代も無い。原因は言うまでもなく、人が自然の心地良さや大切さを忘れ、あまりにも人工的な環境に身を置くようになってしまったからだ。そして、命は食によって造られ、養われているのだと言うあまりにも当たり前のことを忘れてしまったことにある。

 長年いのちと食、病気との因果関係を眺めて、つくづくと病気は有り難いものだと思う。病気とは、世間で言うように闘う敵などでは決してない。いのちの偏りを我々に教えてくれる、じつに有り難い危険信号なのだ。

 「病気とは、人間にとってより良い環境とは何かを知る為に存在する」とは、ギリシャの医聖であり、現代医学の父とも言われるヒポクラテスの言葉だが、まさにその通りである。現代に病気が蔓延している理由を、見事に一言で言い表している。

 これから病気はますますいろいろな原因が複雑に絡み合い、多様化して行くことだろう。しかし、少しでも自然な食事を心がけ、自然環境の中に身を置けば、不思議なほど容易に改善されるものでもある。ぜひ、実感していただきたい。


 


2014年4月9日水曜日

病気の改善にも「断捨離」を!

世の中、これだけ何事につけ「もっともっと」の時代が続くと、「捨てる」「手放す」「心静かに」「頑張らない」と言った言葉がどこからともなく出て来る。それらを推奨する本がベストセラーになったりもする。良くしたものである。

この断つ、捨てる、手放すと言った発想。特に、病気という課題に取り組む際にはとても重要なことである。と言うよりも、この発想が持てるかどうかが、病気をどれだけ早く改善できるかどうかの大きなポイントとなるのだ。

特に、飽食、美食がその原因と思われる現代病の激増。これら慢性病の改善には、この断つ、捨てる、手放すと言った心の持ちようがとても大切だ。一言で言うなら、どう生活を改善し、食の執着から離れ、小食、小飲を頭と身体でしっかりと理解し、実践できるようになるかにかかっている。

その大きな理由の一つが、人間は、人類史上絶えず飢えていたという事である。そのため、飢えを耐え、乗り越える力は元来、人間の命の中に備わっているが、反対に、美食、飽食の経験はなかったために、それに対する抵抗力、免疫力が、我々の命にはまだ備わっていないのだ。

従って、この現代病、慢性病の改善には、腹を空かせることが一番だと言う論理が成り立つ。その通り、これまで小食、小飲による心身改善法である「半断食」を十数カ国8000人以上に体験してもらったが、この健康法は、どの国の人たちにも間違いなく通用した。

抱えた病気や状態を改善しようと考えたら、これまでの食の習慣を捨てる、執着を手放す、そんな気持ちの転換をまずは試みたら如何だろう。ぜひ実践してもらいたいことである。

2014年4月5日土曜日

相撲にみる日本人の命の原点


 京都に住んでいるお陰で、被災者はいろいろな催し物に招待して貰える。先日は大相撲京都場所を見せてもらった。昔一度見たことはあったが、何十年ぶりかに見る生の相撲であった。
 相撲がなぜ国技なのか?その理由を知りたいと思って見たが、なるほどこれが国技の理由かと自分なりに解釈して大いに楽しめた。
 相撲はかつて神事だったそうだ。なるほど、行事の衣装や横綱のしめ縄も、神社のそれと同じとするなら、横綱は、俗界を超えて神界に入った人間だという解釈もあり得る。勝手な自分の解釈だが、これはすごいことだと思った。
 土俵入りに弓取り式、四股(シコ)を踏むことのどれもが、その場の邪気払いだそうな。三役そろい踏みに見る関取の立ち方も、正面に向い東西逆三角形の対を成す。なぜ南北ではなく東西なのか等々。相撲を神事と思って見ると、じつに興味深いことが一杯あった。
 気がつくと、狭い椅子に座って朝の8時過から午後3時までぶっ通しで7時間も見てしまった。これが意外に疲れてなく、むしろ、見る前よりも体も気も元気になって随分癒された気分になっていたのには驚いた。
 相撲は、プロレスやボクシングと同じ格闘技と見られがちだが、見た印象からすると、そうしたものとはまったく似て非なるものである。
 人は興奮すると「頭に血が上る」と言うが、その言葉通りに格闘技は見てるだけで頭に血が昇ってカッカする。そんな興奮が良くて見るものだとも思うが、相撲の場合は、そんな興奮具合とはまったく違う。
 いい取り組みになればたしかにワーっと湧いたりもするが、それが、まったく違う楽しみ方なのだ。言うなら、勝敗はどっちが勝っても負けてもいい、それがいい取り組みでさえあれば、勝ち負けにこだわらずに誰もが喜ぶ。どっちの相撲取りをも賞賛する。そんな楽しみ方だ。
 相撲の基本は、四股(シコ)踏みにあるようだ。稽古の際、出番を待つ間相撲取りは、ひたすら四股を踏みながら待つ。いい相撲取りほどじつに見事な、見ていて惚れ惚れする四股を踏む。
 なぜ、四股がそんなに大事なのかと考えたが、自分でその真似をしてみて分かった。四股とは、じつに足腰が大地にしっかりと落ち着く運動なのだ。踏めば踏むほど体全体のバランスが取れてどっしりと安定する。なるほど、相撲では、そのためにやるのかとの勝手な解釈である。
 と同時に、相撲がなぜ国技かの理由もそれなりに分かった気がした。この大地にしっかりと気を下げ、体全体をどっしりと安定させる。これが相撲にとっては何よりも大事な基本なのだろう。いや、じつは、この四股にこそ相撲の真髄がある。これも自分の勝手な解釈である。
 今、日本人の気は、随分と上ずってるなと感じる。言うなら、興奮させる神経ばかりが過剰に働いていて、気持ちも体もまるで地に足がついてない命になってしまっているように思えるのだ。
 それはきっと今の日本人が、知識や情報を得ることばかりに夢中になって、都会の喧噪やモノへの執着、ストレス一杯の人間関係の中で、絶えず神経が高ぶっていて興奮状態にあるからなのだろう。
 相撲が国技である理由は、型の中にそのすべてが現れていると見た。日本人の食の原点である米俵に囲まれた円の中で、塩の気をたっぷりと含んだ土俵は、まさに地球の大地そのものである。その大地の気を存分に浴び乍ら、裸の体と体とがぶつかり合い互いにその力を高め合う。日本人の命の原点が乱舞する様を神前に捧げる儀式。相撲とは、そんなマツリゴトなのかも知れないと思った。
 残念なことに、今、横綱は3人とも外国人だ。なぜ、日本人からなかなか横綱が出ないのか?これは、あらゆる分野にも言えることだが、今の日本人の心身の脆弱さが、国技の上にも見事に現れているようにも思えた
 誰もが待ちわびている日本人の横綱。果たしていつかは実現するのだろうか?取り戻したい日本人の命の原点を相撲に見た。相撲はまさに日本人の国技そのものであった。

2014年4月4日金曜日

食の講演会のお知らせ

■講演名:橋本宙八講演会「食で変える、心と身体」
■日時:4月6日(日)13:00〜15:30
■場所: Vegecafe&Dining TOSCA
■会費:1,000円
■定員:25名
■お問合せ/申込は→コチラ
 電話→080-1095-9731
メール→kioma.hashimoto@gmail.com
担当:橋本樹生馬まで
■詳細テーマ:食の研究と実践40年/食といのちの関係/食の本質とは/半断食による体質改善法ほか