2013年12月27日金曜日

今、私たちに求められること

 「これから世界は国境のない一つの世界になって行く」という言葉は、もうずいぶん前からあらゆる分野で言われて来た。しかし、その方向に向かうだろうという予想は、あまり実感が伴わないものだった。

 しかし、そんなグローバル化(地球化)の波が、いよいよここ数年、日々実感を伴うものになって来た。多くの人々が海外に行く機会が増え、世界のニュースを頻繁に目にするようになった。インターネットの進歩は、我々の想像をはるかに超えて、いよいよ個人の壁、社会の壁、国の壁を壊し始めている。


 日本人であると言う心を忘れず、しかし「世界は一つであり、すべての地球人は家族の一員である」と言う心を成長させ、それを体現して生きて行く人間になるにはどうしたらいいのだろうか?と考える機会が多くなった。


 国民の代表と言われるリーダーが、このグローバル化の現実が見えず、卑小な己の感情や狭い愛国心で時代を逆行させる言動が目につく。しかし、そうした人間を代表に選んだのは他でもなく国民自身だ。彼を批判する前に、我々一人一人が自身のあり方をこそ反省しなければならない。

 「今、日本人に問われているのは、政治家であれ、経済人であれ、官僚であれ、とにかく他者への依存心を捨て、世界の民主化と地球化の潮流に沿って、どう自らの意思と言動とをはっきり確立して表現出来るようになるかだ!」と発言する有識者は多い。

 まさに、そうなのだろうと思う。困難な原発問題の解決も、はっきりしない日本の未来も、すべてが、国民の一人一人の決断と勇気にかかっている。

 しかし、日本の社会の仕組みを変えることは当然一人では出来ない。多くの国民の同意と行動が必要である。ましてや、あらゆる分野で文化も民族もまったく異なる人々が出会い、ぶつかり、交流し合い、やがて一つになって行くグローバル化の道のりは、想像以上に長い時間と努力を要することだろう。

 しかし、自分の心のあり方やライフスタイルを変えることは、今日からでも、今すぐからでも可能なことだ。「自分が変われば世界は変わる!」を偉人たちの専売特許にして置くのは勿体ない。

 グローバル化への参加は「井の中の蛙」である島国日本の国民には最も困難な課題である。しかし、だからこそ私たちの一人一人が「自立した人間として一人の地球人になる」ことに勇気を持って向き合って行かなければならない。

 

 


2013年12月22日日曜日

希望の食の実践教育

 九州の福岡県で玄米食を基本とした食育に熱心に取り組む保育園の様子がテレビで放映されていた。高齢の園長さんの子育てに対する食の重要性を語る姿勢と長年の素晴らしい食育活動に感銘した。

 毎日の給食のメニューは、オーガニック野菜を使ったほぼ完全な和食の伝統食。5歳の園児が自ら食べる米を洗って仕込みまでする。食前には全員で一口100回を噛む練習をしてから食事が始まる。おやつもお菓子ではなくおにぎり。

 秋には沢庵用に買った大根を一人一人が洗い、葉っぱを切らせ木の桶に入れる経験までさせる。餅つきや干し柿作りも単なるお遊びではなく立派な食の実践作業となっている。おざなりな教育が多い中で、子どもたちの仕付けにまでなっているところが素晴らしかった。

 ややもすると、単なる知識の投げ売りやファッションになりがちな食の教育や宣伝活動。戦前、戦後を生き抜いて来た逞しい日本女性の生き様そのものをしっかりと子どもたちに伝え、日々実践させている姿に感動した。この試みが、一日も早く全国の保育園や幼稚園、小学校や中学校にまで広がったら素晴らしい。

 何よりも、一目で見て分かる昔の子どものようにしっかりとした目つきと体つき、そして態度に育っている園児の姿に、危うげな日本の将来の一筋の希望を見たように思えて嬉しかった。







2013年11月10日日曜日

「自然に還る」生命たちに感謝!

 約一ヶ月ぶりのいわきへの帰宅。我が家は、東北の地にあり、標高500mの山上にあるので、里よりずっと早い紅葉の進み具合である。一年ぶりの秋は、しばし忘れていた見事な風景だった。

 多くの人が、紅葉は何日も続くものだと思っているだろうが、じつは、その地の本当の紅葉は、そこに住む者にしか味わえないものであり、燃える様な見事な一瞬というのは、わずかただ一日の出来事なのだ。

 残念ながらもうその時は過ぎていたが、それでも、相変わらずの感動的な秋がそこにあった。特に、敷地内とその周辺はほとんどが落葉樹なので、それぞれの木の葉が、その持てる色を競うように紅く燃えている。この地の自然の大きさに改めて感動する。何とも贅沢な風景の独り占めである。

 震災後、自宅には、特別な一度を除いて子どもらは一切帰っていない。未だに放射線量が高く、若い者たちが来るべき所ではなくなっているからだ。

 この二年半の20数回に渡る帰宅の度に、この地の変化を肌で感じて来た。その都度いろいろな思いが現れては消え、消えては現れた。そのお陰で、きっと、他の被災者同様、今に至それなりの気持ちの整理も出来て来た。

 しかし、ここで生まれ育った子どもらは、そうした気持ちの整理が出来ないままに今に至っている。どの被災地の親も、きっと私と同じように、子どもに対する申し訳なさを感じ、哀しさを感じていることだろう。

 この変わらない懐かしい風景を目の前にして、思わずカメラを持って庭に飛び出した。この自然を改めて自分の感性の中に刻みたいと思い、ここに来れない子どもらにも、この感動を見せてやろうと思ったからだ。

 きっと、自然の中で生活をする多くの人がそうだと思うが、30年間という長期に渡る暮らしとなれば、どの季節に、どの場所のどの位置に、角度に、自分の最も見たい風景があるかがはっきりと身体に刻み込まれている。

 大好きな池に浮かぶ落ち葉を撮ろうと所定の位置に向かった。と、私の気配に驚いた鴨たちが一斉に飛び立った。いつもは、大抵つがいの二羽だけだが、この日はまったく違っていた。空に飛んだ姿を瞬時に数えるのだから、そう正確な数字ではないが、すくなくとも20数羽も居る。水面から大きな羽音を立てて一斉にバタバタと飛び立った。

 「うわっ、すごい!」と驚いたと同時に、これはいつものことだが、自然の中に棲まうこうした動物たちの姿に出くわすと、瞬時に、「あっ、邪魔してごめん!」「すぐに居なくなるから戻って来て!」と思う。それは、彼らこそがこの大自然の主であって、自分はむしろ、その静かな生活を邪魔する闖入者であることをとっさに感じるからだ。

 そして、直後に決まって、こんな動物たちの居る自然の中に住まわせてもらっている幸せを感じ、まるで宝物を発見したように嬉しくなってしまう。

 震災後、私たちが生活の営みを停めてしまったこの地では、植物も動物も、すべての自然の中のいのちたちが、その営みをとどめる邪魔者が居ないことを知り、ものすごい速さで本来の自然に還ろうとしている。

 放射能で汚染され住めなくなってしまった寂しさよりも、ここにはまだ、そんな罪を犯した私たち人間に代って、いのちを賭して元の自然の姿に還そうとしてくれている自然の大きな力が遺されていることを知って、嬉しく、そして心から有り難いことだと思えた瞬間であった。

2013年10月25日金曜日

この國の国民であることが恥ずかしい!

 先日、フクシマの人間が、原発事故に対するこれまでの政府の対応を見ていて「この國の国民であることが恥ずかしい!」と言ったと聴くが、まさに同感である。

 私も、他の被災者同様、これまでの二年半、怖れ、怒り、嘆き、悲しみ、そして、諦め、喜びの様々な心境を味わって来たが、今の汚染水問題に対する相変わらずの東電の保身、政府の無責任な言動、メディアの無関心さを見続けていると、もう、そんな感情はどこかに失せてしまい、今はただただ、彼同様「この國の国民であることが恥ずかしい!」気持ちになっている。

 そして、かけがえのない海を汚し続けている暴挙に、世界の国々に対して、また、そんな汚れ切った海しか残せなくなってしまった次代に生きる人々に対して、心の底から「申し訳ない」気持ちで一杯である。被災者転じて加害者の懺悔の心境なのだ。

 事故直後、人類史上始めて経験するこの惨劇の裏側で、この悲劇によってきっとこの国は生まれ変わるだろう!そして、世界を新しい時代に導くそんな素晴らしい國になるに違いない!という大いなる希望が持った。

 しかし、どうもこの國は、まだまだ当分その樣にはなれないらしい。だとすると、当初から怖れていたように、更なる悲劇がこの國には必要なのかも知れない。被災者の一人としては、もうそんなことはまっぴらごめんだが、今のこの國の変わらなさ加減を見ていると、そう思わざるを得ない心境になる。

 人間は、自然環境を破壊し、自ら造る文化、環境によって変容、進化を遂げなければならない宿命を持った動物である。その為には、まだまだ多くの犠牲が必要かも知れないのだが...。誠にしんどいことである。

 

 

2013年10月12日土曜日

信じる方が無知で馬鹿だという話

 先日、京都で出会った放射能計測の専門家が、汚染状況を詳しく測るためにわざわざいわきの自宅まで足を伸ばしてくれた。その調査結果を見た彼が「ここはもう人間の住める場所ではないよ」と言ってくれたことが、フクシマからの撤退をいよいよはっきりと覚悟させてくれた。

 昨日その彼と話をしていて、改めて日頃我々が目にしたり耳にしている政府、東電、メディアからの情報がいかに欺瞞に満ちたものであるかを再認識した。

 その中の一つが、津波から原発を守ると言われている防護壁の問題である。決して完璧ではないだろうが、いくらかは効果のあるものだとは思っていたが、じつは、あの壁がまったく役に立たないものだという話である。

 原発は、原子炉を冷やすために巨大な管を海に伸ばして施設に大量の海水をとり込んでいる。その管の口は四六時中塞がれる事はなく海に解放されているので、津波の際には、壁があろうが無かろうが、この管を通して海水が施設に逆流するのだと言う。事実その通りに3・11では、高台にあったにもかかわらず女川原発ではそれが起こり、原子炉が停止するという緊急事態が起きていた。

 「えっ、あの莫大な税金を投入して造っている高い壁が何の役にも立たないものなの?」と聴き返した私に、「えっ、効果があると思っていたの?」といわんばかりに一笑されてしまった。「そんな大事なこと誰もからも聴いていないぞ!」と思ったが、実際、その管の存在を知ってみると、壁を高くすることがいかに無意味であるかが容易に想像できる。

 「原発完全収束宣言!」「原発は完全にコントロールされている!」に象徴されるように、我々一般市民は、政府、東電、メディアからこの二年半、散々騙され続けて来た。そして、間違いなく今後も騙され続けることだろう。騙す方が悪いのか?騙される方が悪いのか?結局は、単純にどこかで彼らを信じてしまうこちらが無知で馬鹿なのだ。と改めて知った話であった。

2013年9月30日月曜日

バーチャル時代の落とし穴

 iPhoneなるものが出現してもう大分になる。街に出ると、画面に首っ引きの若者たちの姿をどこでも見かける。電車の中は元より、歩き乍らも画面から目を離さない。人ごみの中だと思わずぶつかりそうになる。そんなこともおかまいなく、画面の中にのめり込む若者たち。

 これはもう大分以前の話だが、いわきでセミナーの参加者を駅まで迎えに行った帰り、車窓から田園風景を見ていた若い女性が、突然「わあ、トトロの世界みたい!」と叫んだことがあった。

 普段見慣れない田舎の風景を目にして、感激の余り思わず出た言葉だったと思うが、それを聞いた途端、私の頭の中は少々混乱した。「えっ、この風景がトトロじゃなく、トトロがこの風景のようだ!じゃないの?」と。

 改めて彼女に聴きかえしもしなかったので、その言葉の真意がどっちだったかは分からないが、私にはその発想が、現実と虚構がまったく逆転している言葉の樣に思えて、とても衝撃を受けたことを思い出す。

 きっと、彼女の頭の中にある田園風景は、現実のそれよりももっとリアルにトトロの絵の中にこそ有り、それこそが、彼女の理解する田園風景なのだろう。これはきっと、現代の多くのiphoneに夢中の若者たちの頭の中でも同じことが起きているに違いない。リアル(現実)がどんどんバーチャル(虚構)になって行き、バーチャルがますますリアルになって行っている。

 大分前から、これからの世界は、現実から虚構が生まれるのではなく、虚構の世界が、現実を創造し、コントロールして行くと言われて来た。そんな未来予測が現実のものとなり、世界の至ところに出現していることを感じる。

 東北大震災の津波に襲われた時、それぞれのとっさの判断で避難した人たちの命が救われ、マニュアルに縛られて身動きが取れなかった多くの命が失われた。災害時こそ、現実の状況に即した判断、決断、行動が求められる。襲い来る津波を背に、iphoneの画面を見乍らでは絶対に逃げられない。

 生命の危機の時代、気候異変、グローバル化の激流の中で、これまでとは想像もつかないくらいに想定外のことが起こり得るこれからの時代に、果たして、現実感覚の乏しいこうした若者たちが、とっさの出来事に対し自ら的確に判断し、行動し、生き延びて行く事ができるのだろうか?と、大いに心配になっている。シニアの年越し苦労で終わってくれれば何よりだが....。

2013年9月26日木曜日

サイゴニカツモノタレ!


 自然食ブームや多くの有名人が実践する「食物による健康法」の先駆けとして世界的に知られるようになった「マクロビオティック」は、日本人の桜沢如一(さくらさわ ゆきかず/1893年〜1966年)がその創立者である。

 国の内外を問わず多くの弟子を育てた彼は、戦前、フランスのパリを拠点に活動を展開していたが、第二次世界大戦が始まり、学徒出陣などで次々に戦争に駆り出されて行く日本の弟子達に向けて、反戦のメッセージと知られないように打った電文が「オシモノヲツツシミテ、サイゴニカツモノタレ!」だった。

 今、世界は、これまでに見られなかったほど危機的な状況に見舞われている。気候変動による洪水や干ばつ、竜巻、原発事故、戦争の危機や経済格差、テロや凶悪犯罪、飢餓や貧困等々。これまで危惧されていた地球規模の危機的課題が次々と現実のものとなっている。まるで戦時下の樣だと、戦争を知らない身でもつくづくそんな危機感を日々感じる。

 生物は、長いサバイバルの歴史の中で、飢餓の環境を必死で生き抜いて来た。そのために飢餓には本来とても強い。動物が病気や怪我をした時に断食をするのは、自らの生命力、治癒力を引き出すためのいのちがけの賭けでもある。

 唯一、人間だけはこの本能を忘れてしまっている。それどころか、「飽食、美食」という未だかつて生物が体験したことのない未知の領域に挑み続けている。そして今、その勇気ある挑戦者たちが次々と倒れて行っている。

 生活環境が厳しくなればなるほど、生き物は、その持てる本能を全開にして生き抜く力を高めていかねばならない。どんな環境下でも、「自分のいのちは自分で守る!」ことが生き抜くための必須条件となる。食のコントロールは、そのための生き残りの智慧。「食しものを慎みて最後に勝つものたれ!」は、生命の危機の時代を迎えた我々への、先人からの熱きメッセージでもある。宙八

2013年9月22日日曜日

行く河の流れは絶えずして・・・

 いわきの山の中に住んでいた頃、東京などに行った帰り、山の家に近づくに連れて身体がミリミリと音を立てて元気になったのを記憶している。

 そんな30年来の田舎暮らしから京都に移り住み間もなく3年。ここにはじつに様々な人が居て、いつでも日本の優れた文化を楽しむことが出来る。そんな環境は決して悪くはないが、この頃、身体と心が、どこか軸を失いつつあることを感じる。

 自然というものは、日頃は限りなく私たちの身体と心に優しい。だが、ひとたびその均衡が破れると、人間の感覚などはるかに超えたスケールで私たちを脅かす存在となる。竜巻や洪水、異常気温、これまでになく、自然の脅威を感じている人が多くなっているに違いない。

 台風18号の余波で起きた京都の洪水は、普段なら絶対に起こりえない穏やかな観光地に起きた事だけに、自然の脅威を多くの人がまざまざと感じたことであった。

 直後の現地を見た。普段ならあるはずもない驚くほど高い位置にまで泥水が上がった事が一目で分かる。白く乾いた泥の線がどこまでも続いている。この周りに住む人々が、どんなに恐ろしかっただろうかと想像された。

 そんな爪痕がまだある一方、河の水はまだ濁っているが、その流れは、早くも、まるで何事もなかったかのように穏やかに流れている。草や鳥たちも、そんな回復を手助けするかのように、日頃のそれと変わらない様子でそこにいた。

 方丈記で謳われた鴨長明の有名な詩に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」とある。

 様々な出来事でバタバタするのは、人の身体と心だが、どんな出来事に遭遇しても、本来の自然を知り、しっかりとそれが身についてさえいれば、それがブレルことはない。改めて、身体や心のよって立つところが、自然にあることを知った。宙八

2013年9月17日火曜日

講演会のお知らせ

未だに、収束どころか、まだまだ危険な状況が継続しているフクシマ。
その被害は、汚染水の海への流失を始めとして、今後、どこまで広がるのか、大いに心配されるところです。そして、廃炉への道筋は何年後に可能になるのか?

私たちの知らないところで、多くの被曝症状がすでに広く見られます。その実態は今、どのようなものなのでしょう?数年後に日本の海は壊滅状態になるとも言われています。魚から受ける内部被曝の課題は?オリンピック誘致の陰で、確実に忍び寄る原発の様々な被害。ぜひ、今一度正確につかんでおきたいものです。

私が関っているNPO2050の東京での講演会が今月27日に以下の内容で行われます。講師は、私が京都で縁のあったフリージャーナリストの守田敏也さんです。
原発に関する様々な分野についてとても広く、そして、バランスよく調査、研究し、多くの人に伝えている人です。私も聴きに行きます。皆さんもぜひ、関心のある友人、知人を誘ってご参加下さい。宙八


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 9月講演会 テーマ「どうすれば内部被爆を避けられるか?」
  -原発・放射能・内部被爆・健康・いのち・・・を考える2時間-

 とき:9月27日(金) 午後6時~8時
 場所:JICA地球ひろば 601号室 (「市谷駅」より徒歩10分程度)
 講師:守田敏也氏 (フリージャーナリスト)
 会費:会員 500円 非会員1000円
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2013年9月8日日曜日

オリンピックで隠されて行く危機の事実

 2020年、東京で再びオリンピックが開催されることが決まった。

 阿部首相は、国際オリンピック委員会の総会で、原発の汚染水漏れを危惧する海外に対して「状況はコントロールされている」「汚染水の影響は、原発港湾内の300メートル範囲内で完全にブロックされている」「健康問題については、今も、現在も、将来もまったく問題ない」と発言した。

 この発言を聞き、1億2千万の命を預かる一国の首相が、どうしてこんな嘘、でたらめな発言を、世界に向けて平然と言えるのだろうか?こういう人物を首相にしている日本国民とは、一体どういう民族なのかと改めて不思議に思った。

 崩壊した原発から、毎日300トン以上もの汚染水が海に垂れ流しになっていると公表されたが、こんなことは、震災直後から多くの人が分かっていた。その事実を隠しきれなくなって東電が、ようやく、止むなく発表したことである。

 先日、津波で流された宮城県の漁船が、2年半ぶりに福井県沖の日本海で回収されたと新聞にあった。日本の周囲を流れる海流が、船を、ハワイ、尖閣諸島、日本海へと数千キロ漂流をさせたことを海上保安本部が確認している。海流は世界中を自在に流れる。汚染水が、原発から300mの範囲に完全にブロックされているなどと言うたわけた嘘を一体誰が信じるだろう?

 原発による内部被曝の大半は食べ物による。チェルノブイリでは多くの人が牛乳によって被曝をしたと言われるが、日本では、間違いなく、汚染され続ける魚を食べることで膨大な人たちが今後、内部被曝をして行くことだろう。

 専門家によると、汚染水は今後6年間で完全に日本列島を覆い、日本の海産物は全滅するだろうと言う。アメリカ、オーストラリア、中国、韓国のアジア諸国がこの問題を心配し、日本に抗議をし始めたのは当たり前のことである。

 その海外の杞憂によって、オリンピックが日本に招致されないことを祈っていた。お祭り騒ぎでいよいよ原発の危機が目隠しされてしまうからである。しかし、札束攻勢の外交が功を奏して、その心配がとうとう現実のものになってしまった。

 27年経った今でも、内部被曝によって新たな被爆者が次々と出て来るチェルノブイリの原発事故。世界有数の魚食民族である日本人が、将来にわたってまったく健康を害しないなどと、一体、誰が保証できるのだろうか?

 収束どころか未だにその解決の糸口さえつかめていないフクシマを抱える日本が、この危機的状況に眼を閉じ、耳を塞いで、国を挙げてオリンピックというお祭りに血道を上げて行くことになった。そのおめでたい裏側には、間違いなく、経済効果という豊かさの妄想、そのお化けがまたぞろ見え隠れする。

 「表大なれば裏また大」この危機の本質に目覚め生まれ変わるために、さらなる危機的状況を必要とする日本人。被災者の多くは、この国とこの国民の底なしの無自覚さには、もう心底くたびれきっている。


 

 

 

 


2013年7月5日金曜日

見晴らしのきく場所から遠くを見て生き抜け!

 いわきに居た頃(もうそう書かなければならなくなった)、限界集落と言われる地区の中とは別に、近隣に長年付き合った友人たちが10人ほど居た。私にとってはかけがえのないコミ二ティだった。その友人達とも原発事故の被災でバラバラになってしまった。

 その中の一人で、いち早く移住を決め、長年手塩にかけたこだわりの家を売り払うことを決断した友人が、「これからは、見晴らしのいい場所に住まなきゃね!」と言っていた言葉が頭に残っている。

 いわきのわが家も彼の家も、素晴らしい自然の中にあったが、たしかに、そう開けている環境ではなかった。それだけに、もし今後、終の住処を選ぶことがあったとしたら「見晴らしのいい所がいいなあ」とそれ以来ずっと思っている。

 都会の暮らしは、人や文化を楽しむためにはたしかに良いが、反面、日々の暮らしの煩雑さや情報の多さには少々辟易する。特に、被災者として見ざるを得ない原発情報や政治や経済の動向。世の中の波の数々。時には発信。どれもが、今という時代に生きて行くためには欠かせないことだが、二年もこんな波に翻弄されていると、そろそろこの揺れから逃げたくなっても来る。このままでは、寿命が縮む危機感さえ感じる。

 人生も60歳を過ぎれば、世の中や人生の何たるかが見渡せるようになる。少々のことには動ぜず、無用なことはさらりと流す術も身につけて来る。体力の減少やモノ忘れのリスクも、ある意味では便利なことでさえある。若い時には無かった遠くを見る目は、年配者ならではの特権でもある。

 老子の言葉に、「広大な宇宙から見れば、人間世界の出来事はすべてがアブクのようなものだ!」がある。あまりにも大きすぎる視点は世間では通用しないが、今の時代のように、あまりにもミクロな問題に翻弄され続けると、誰もが疲れ、時には命取りにもなってしまい兼ねない。

 厳しいグローバル時代を生き抜くためには、少しでも見晴らしのいい場所を確保し、遠くを見て生きて行くことは大事なことだ。淘汰されるかどうかもすべてが自己責任、自分の判断力次第の時代になる。津波で生き延びることが出来た「てんでんこ」の教えを、ここでも私たちは忘れてはならない。

2013年6月8日土曜日

サバイバルの知恵?

 原発事故が起こるまでは、福島の山奥で30年、植物、動物、光や空気や水など、自然の営みを日々の糧として生きていた。勿論、機会があれば新聞も雑誌も読んだが、それは、生活の中でのほんの息抜き程度のものであった。

 しかし、原発で被災したことがきっかけで都会で暮らすようになり、社会の状況を日々、新聞やテレビ、雑誌等で頻繁に知るようになった。

 お陰で、政治や経済、その他諸々のことが分かり、ようやく人並みになったとも感じるが、改めて、世の中の情報の多さ、その煩雑さに驚く。知って面白いことも沢山あるが、それによって頭が振り回され、身体の穏やかさがどこかに行ってしまったようにも思う。

 世の中に嬉しいことが多ければ、これほど疲れる事も無いと思うのだが、何しろ激しく、辛く、情けないことが多い。

 モノを持たない、捨てる、離れる「断捨離」が注目される昨今だが、モノの手放し同様に、情報の手放しもまた、この時代を穏やかに生きるためには、大切なサバイバルの知恵の一つかも知れない。

2013年4月18日木曜日

迷妄、呪縛を解き放とう

 懲りもせず、またぞろ始まってしまったモノやお金を追いかける世の中を見ていると、日本人は、一体いつになったらこの迷妄、呪縛から解き放たれる日が来るのだろうか?と考えてしまう。

 震災後、来日したダライラマが、日本人に向けて言った言葉を思い出す。
なぜ人々の欲望が止まらないか?それは幸福感を絶えず外部の刺激に求めているからです。 しかし、本来「空(くう)」であるモノの世界に永遠の満足感はありません。今こそ、日本人は次の段階へ、心の平和という本当の幸福の世界へと向かうべき時です。」

 すべてのモノは移り、変わりゆく。どんなに好きなモノでもいつかは壊れ、目の前から姿を消す。愛する人も、大切な家族も、友人も知人も、誰よりも愛おしいこの自分自身でさえ、いつかはこの世を去る。

 日本人は元来、このモノの本質であるところの「無情」を最も良く知り、心の豊かさの世界、「侘び寂び(ワビ、サビ)」の文化を創り上げた。そのモノのアワレの本質を何よりも愛し、慈しんで来た民族だった。相手に心からの敬意を払う日本人の挨拶は、頭を下げ、腰を曲げ、相手の視線から自己(我)を消すという究極の礼儀作法でもある。

 そんな日本人が、目に見えるモノにしか幸福感を感じなくなってしまったのは、なんとも哀しいことである。寂しいことである。生きる為に必要な基本的なモノやお金があったなら、もうそれ以上のものは不要なはずである。

 にもかかわらず、もっともっとと「外なる幸福感」を限りなく追いかける病気「もっともっと症候群」が、現代の日本人とこの国の迷妄や呪縛の元凶である。<幸福感は心で感じるもの>この当たり前のことを思い出し、一人一人がそれを生活の中でどう実践するかが、今の私たちには求められている。

 



2013年4月11日木曜日

「放射能を喰って生きるからいい!」

 月一度の割合でいわきの自宅に帰宅しているが、毎回、帰宅の度に異なった複雑な思いを体験する。

 震災以前から限界集落と言われていたこの地区は、震災後、いよいよ崩壊の危機に直面している。10件ほどあった世帯数は、今や4世帯が残っているだけ。その人たちの中にもすでに移住を考えている人も居る。来る度に出来るだけ一人でも多くの人に会って帰りたいと思うが、なかなかそう出来ないことも多い。

 昨日、家の整理で出たものを庭で燃やしていると、煙を見たとなりの隣人が心配して顔を出してくれた。留守がちなこちらの状況を知っていて見に来てくれたのだ。有り難いことである。

 彼は、独り身で暮らしていて間もなく80歳になる。彼との会話に限らず、村人との会話はいつもワンパターンだ。互いの近況をしばし話すと、次には被曝や原発の状況が心配な話、やがて村人に関する情報交換。そして、元気でまた会おうねと言う別れの言葉で終わる。そんな具合である。彼とも久しぶり、立ち話だったが束の間の貴重な会話であった。

 この村でもようやく除染が始まったが、世間で言われるような期待感はほとんどの人が持っていない。山奥で、家の周囲を多少除染しても、すぐにまた戻ることを知っているからである。忙しい田舎暮らしでなかなか出来なかった周辺の掃除が、これで少しはきれいになるから有り難い、くらいが正直な本音である。そのために一軒あたり数百万にもなる除染費用をかける無駄使いをジレンマを持って一番感じている人たちでもある。

 自給している彼に、野菜の数値は測っているんですか?と聴くと、結構測っているらしい。「除染も俺はいいと言ったんだけど、全部やることがきまりだからってやることになったんだよ」「俺は、放射能を喰って生きるからいいと言ったんだけど!」と苦笑する。そんな言葉が理解できるのは、被爆地に生きる者だけだろう。

 「人生で最も大切なのは思い出である」という話を聴いたことがある。たしかにそんな気がする。長年住み慣れた家を離れる離れないは、個々それぞれが様々な事情を抱えて決断することだ。年配者の多くが被災地に残る決断をする事実は、被災してみれば容易に理解できることだ。しかし、そんな人たちでさえ、自分の子どもや孫が被爆地に居ていいと思う人はほとんど居ない。

 「放射能を喰って生きるから・・・」と哀しい笑いを投げかけた80歳の彼に遺された過去の時間は、未来の時間よりもはるかに長い。放射能がどんなに危険であるかは分かっていても、今こうして、思い出の場に居続けることが、今を生きるための唯一の元気のモトだからだ。被災地で生き続けることを覚悟した者だけが知る言葉にならないメッセージを聴いた。

2013年2月8日金曜日

「豊かさと人間退化のチキンレース」


  中国13億5千万人、アメリカ3億1千万人の人口比率から言うと、わずか1億2千万人、世界第三位の経済大国日本は、紛れも無く世界第一の豊かな国である。

 にもかかわらず、26カ国中24位の幸福度であったと言う事実と重ね合わせると、世界一豊かな国日本が、同時に、世界一不幸な国であったことが分かる。これは、明らかに、経済やモノの豊かさが、国民の幸福度とはまったく関係のないものであることを証明している。

 世界未曾有の災害に見舞われ、未だに出口の見えない原発事故を抱えながら、国民の多くは凝りもせず、更なる経済の豊かさを追いかけている。モノの豊かさが、必ずしも人生の幸福を約束するマジックでないことを、もうとっくに知りながら・・・にである。

 モノゴトには表裏がある。極まれば転じ、表大なれば裏もまた大となる。美食、飽食は現代病を激増させる。新幹線は、旅の途中の楽しさを奪った。エスカレーターは足の機能を弱らせ、フィットネスクラブに貢献した。車のナビゲーターは、ドライバーの土地勘をことごとく失わせ、サプリメントは、人々から味覚と料理の楽しさを奪った。

 こうしたモノに依存した人間の生物的退化現象は、身体ばかりでなく、ココロの豊かさをも喪失させる。過剰な便利さは、幸福を感じられない人間を生み出すのだ。我々日本人は、この行き過ぎた豊かさと人間退化の不毛なチキンレースを、この先もまだまだ続けるつもりなのだろうか?(宙八)





2013年1月3日木曜日

「いのちの感性」を取り戻す年にしよう!

 新しい年は、人のこころをリセットさせる。こころには時間の制約も空間の制約もない。その気になれば瞬時に転換できるのがこころと言うものだ。そんな便利なこころを持ちながら、人は驚くほど変わらないこころをもまた持っている。

 昨年の暮れには、「アラブの春」ならぬ「日本の春」が来るかも知れないと期待もしたが、多くの国民は再び、経済や便利さという妄想を追いかける道を選んでしまった。更なる悲劇が起こらんことをこころから願うばかりだ。

 しかし、そうした過剰な豊かさや便利さは、人間の感性を間違いなく貧しくさせる。車は人の足を萎えさせ、高速列車は、旅の途中の楽しさを奪った。携帯電話は、人の触れ合いの嬉しさを減少させ、ナビゲーターは、方向を見定める感性を鈍くさせた。自然との触れあいを求める人々が増え、健康法やランニングブームが社会現象なのは、現代人のそうしたいのちの危機の現れだ。

 本来、物質的な豊かさとは、人間がより幸福に生きるための目的だったはず。しかし、それを求めれば求めるほど身体とこころは貧しくなってしまった。そんな答えは知ったはずなのに、再び我々は同じ道を歩もうとしている。お金やモノが人生の目的になったところに日本人の最大のジレンマと悲劇がある。「知足(足るを知る)」は、過剰な欲望を戒める素晴らしい言葉だが、我々は、すっかりそんな生き方を忘れてしまった。

 こうしたタガの外れた欲望は、食の世界に於いてはさらに明白だ。外食や総菜もの、ファーストフードやコンビニ食が当たり前の食事となった。買っては捨て買っては捨てている美食、飽食が食事になった。それでも足りずに機能性食品、サプリメント、栄養剤を買いにドラッグストアに駆け込む。一億二千万総人口が「栄養不足心配症候群(シンドローム)」にかかっている。

 しかし、人の身体は、過剰な栄養分を摂り込めば摂り込むほど、健康を維持するための機能が衰える。栄養剤は、飲むほどに自力で栄養を造り出す力が衰え、免疫力、治癒力の元となる腸内細菌(バクテリア)を減少させ、いよいよ食物から栄養を取込むことの出来ない身体を造ってしまう。

 病人が増え、栄養失調の患者が激増している事実が、現代人の食べ方の過ちを裏付ける。日本人の心身は完全に本来の感性と力を失ってしまった。満足しないいのちは「もっともっと」を追いかける。

 食をつつしみ、簡素な生活に美と豊かさを感じ、自然と触れ合うことに喜びを感じていた日本人の感性をもう一度取り戻すこと。そんな身体性の回復なくして、日本の再生も発展も絵に描いた餅となる。今年こそは一人一人の国民がそれを実行することを心から祈りたい。

 今日もまた、テレビの株式市場が、人生の豊かさだといわんばかりに株の数値の上がり下がりを報じている。いつの日か、国民の総幸福度(BNH)がテレビで流される日が来ることを願うばかりである。宙八